筆者紹介
濱素紀 1927年生まれ、東京都武蔵野市在住
・1953年 東京芸術大学美術学部工芸科鍛金部卒業
・1955年 同工芸計画科修了
自宅に、濱研究室を開催、日本でFRPの成型法を
マスターした初期のひとり。
・1964年から1998年まで東洋大学工学部機械工学科と建築
学科で、デザイン論、美術史などの講座を担当。
・1974年から1998年まで名古屋芸術大学美術学部デザイン科で
FRP成型法 を教える。
BERLIET(ベルリエ) 1922年製 22CV型タイプVG
ベルリエ社の発祥
ベルリエ社はマリウス・べルリエに依って、1895年にフランスリヨン市内での小さい工作所から始まった。その後1916年には隣接のリヨン郡ヴィニシュー村にも工場を建設した。
最初の製品は1.2リッターの水平対向・リヤエンジン形式から始まったが、1899年になっても年間製作台数は、些か6台だったという。
20世紀に入って、2気筒・4気筒エンジンをフロントに置いたものなど、1905年になる間に8.6リッター・60~80馬力という大型のものまで製造している。
20世紀初頭、日本の輸入自動車の状況
大正時代の輸入外国車の販売は主に、個人のブローカーが店を構えて、自分が気に入ったものを外国から輸入し、日本国内の富裕層相手に売りつける、という形で、商売をしていた。
そのひとり、山口勝蔵という人は自分の名前を付けた店を持って、フランス製の高級車の販売をしていた。その中にべルリエの名前があり、この当時すでに、べルリエが国内を走っていたものと、推察できる。
ベルリエを輸入販売していた通称、山勝商店の広告 文中の15.9馬力というのは、日本の警視庁独自の課税 計算でフランスでの表示と異なります。 |
このころ既に、広告宣伝に、外国自動車雑誌の批評を引用し掲載しているのは、興味深い |
日本自動車博物館展示のべルリエ
日本自動車博物館に展示に展示している車両は、1922年22CV型・タイプVGと推察される。下記の写真が、博物館展示車の形式を確定する証拠となるもので、エンジンルーム内ファイアーボードに取り付けられたプレートに「Type VG」の刻印がみられる。
エンジンは4気筒,サイドバルブ、マグネトー点火でイグニッションコイルは持たない。
ミッションは3スピード、長い棒状のレバーで操作され、当然シンクロはないが、スムーズにギアチェンジが出来るというので、父徳太郎は当時この車に仮ナンバーを付け、埼玉県入間のほうまで妹の家を訪ねたりしていた。
シート、前席は無論の事、後席も広く快適な本革張りで、晴れた日の郊外へのドライブは、心地よいツーリングができたようだ。 |
鉄道で運ばれたべルリエ
戦後、昭和21年5月11日に、神奈川県大磯の山口勝蔵氏宅から、吉祥寺駅渡しで、無蓋車に乗せて、鉄道で運んだ。当時の325円という運賃は非常な高額である。
昭和30年代の苦労話
このベルリエが手に入った昭和30年代には、新品のバッテリーなどは夢のような話で、だいぶくたびれたものをなんとか使っていたものでした。従って、もともとマグネトー点火の場合は低回転ではかかりにくいことから、弱ったバッテリーでエンジンをかけるのは至難の業であったわけです。そこで濱家でも、バッテリーを二つ、それも直列につないでダイナモ・スターターを回す、という荒業をやっていたんですね。
マグネトー点火は戦前の車ではごく一般的でした。ただ、マグネトーは高回転になればなるほど強い火花がでたのですが、ダイナモ・スターターが回す程度の回転ではごく弱いものでした。こうした特性がある上に、バッテリーが弱っているのが普通でしたので、回転は低く、火花は弱く、という二重苦でエンジンがかかりにくかったのです。
今の時代から見ると巨大な大きさのスタータ・ダイナモ。クランキング・ハンドルなど、道具を使っての手始動は、危険が多くまた非力な女性には難しかった。1912年頃キャデラックにデルコ製のセルモータが装着され1920年頃からヨーロッパでも、急速に普及した。 |
ベルリエに用いられていたタイヤはビーテッドエッジと呼ばれる古いタイプのものでした。それが用いられていたのは1920年代半ば頃までで、それ以降は通常のタイヤになります。その古いタイプのタイヤをフランスのミシュランが再生産をしたことがありまして、濱家ではそれを入手したのです。
ビーテッドエッジ、いわゆる耳付きタイヤ、今でも自転車等に使われているタイプです。 またこの時代、タイヤの泥はねカバー装着が義務付け、この車にも、取り付けられています。これは日本製です。 |
イスパノ・スイザ、ベルリエ、ドラージュなどに代表されるフランスの高級車は、軽快でおしゃれなデザインを持つものが多く、粋で洒脱な雰囲気を漂わせるのがその特徴であった。 ロールスロイスやベントレーのような英国車の特徴ともいえる、フォーマルで重厚な感じと全く対称的である。
べルリエ 撮影 大辻清司氏 1950年頃 武蔵野市にて |
展示車の後部座席前方に横幅いっぱいのウインドシールドがあるが、これはもともとのべルリエの付属品ではなく、別売りの汎用型のものであった。
昭和50年代に或る旧宮家で、ガレージ整理が行われたことがある。その際、誰も引き取り手がなく、残っていたのがこのウインドシールドで、それがたまたま知人の縁で濱家が引き取ることになった。当家に来た時の状態は非常に頑丈な木箱入りで、一度も使われた事がない新品であった。
1920年代の高級フェートンボディには、このような取り外し可能なウインドシールドが用意されていた。普段は外しておいて、後部に誰か大切な人を乗せるような場合に 取り付けたものであろう。
運転手がセカンドガラスシールドの準備をしているまた下段の画像は、 後部座席に、お客様を乗せている風景。セカンドガラスシールドの、 効果で快適。 |
べルリエにもこうしたウインドシールドを付けられるように、前席後方に大きいネジが設けられてあった。そこで宮家から来たこのウインドシールドをべルリエ1922年型と一緒に、日本自動車博物館にお渡ししたところ、レストアの機会に取付けていただき、現在のような姿に出来上がった。
Les Automobile Berliet に関する自動車雑誌 “Omuia誌“と “La Vie Auto-mobile誌” 2誌による新型車紹介記事。
“Omuia誌による紹介記事 |
Les Automobile Berliet による紹介記事 |
22馬力のレース仕様、時速115kmで疾走するベルリエ の広告イラスト 1923年 |
べルリエ画像 アラカルト
燃料ポンプは、真空吸引(バキューム)式。インテークマニホールドの負圧を利用して、タンクから燃料を吸い上げ、キャブレータに送る仕組みだった。 大きなホーンも見える。 |
至る所に、立派なプレートが付いており品格がかんじられる。上段のものには、リヨンの名が刻印され、生産工場がリヨンだったことがわかる。 |
この時代の高価格車の高級車は少量生産の中に少しずつメカニズムの改良・改善があり、その都度形式の呼称を改めている。 雑誌の記事の中にも種々、形式名の記載があるが、実際の車のファイアーボードにとりつけられたプレートの刻印が正確なものとみられる。
次回は、ALVIS-スピード20についてお話します。
了