板金職 鈴木公一氏の話 第5回 インタビュー:三重宗久
<いすゞカワサキ工場試作への転勤>
川崎工場の試作は、羽田空港の方向から見るとISUZU MOTORSっていう大っきなネオンサインがあって、その並びにあったんですよ。試作はそこに10年ぐらいいたのかなあ。そのあとで藤沢へ移転するんですけどね。
試作へ移った時に、僕は割合その仕事に抵抗なくはいれたね。その時に試作がやっていたのはベレット、そのフロアの構造はヒルマンと同じだったから。その試作に移るまで、藤沢工場でヒルマンのフロアのスポット溶接やってたわけですから、ああ、一緒だなって。
註:その頃のいすゞの試作工場の事情を知る人の話によれば、現在とはずいぶん違った方法をとっていたという。たとえばフェンダーとかエンジンフードを作るにしても、短冊のようにいくつもに分割したうえで、裏を石膏で固めた樹脂型をまず造り、そこから板厚分だけ加えた状態で上側の型を同じように作る。その上下の型の間に鉄板をはさんで100トン・プレスで型押しする。そうしてできた20~30センチ幅の板を修正のうえで溶接して行って、ひとつの部分を完成させるのである。手間と時間のかかる方法であったが、1980年代の乗用車、アスカの試作でも、まだ同じ方法が用いられていたそうである。
<いすゞ117クーペとの出会い>
その川崎工場にあった試作に1966年秋のある日、大きな木箱が届いた。木枠は釘ではなく木ネジで組み立てられていたから、バラすのも一苦労であったらしい。中に納められていたのは、白に近いクリーム色のクーペであった。
先輩が木枠をバラすのを見てたら、117クーペが出てきた。今までに見たことないような、ほんとにきれいな車でね。これをコカコーラのボトルラインっていうんだよって言われたけど。
ボディの下の方に赤いラインが入っていてね、そこに日の丸があったのが印象的だった。
註:いすゞ117クーペは最初にギアが製作、1966年春のジュネーヴ・ショーに出品した。その車は左ハンドルであったから、その年秋の東京モーターショーに出品するために、右ハンドル車が製作された。これが木箱で試作へ届いて、バラしたときに鈴木氏たちがドア下の日の丸に印象付けられた車であると考えられる。なぜ木枠をバラす仕事が試作へ回ってきたのか、その事情は分からない。
(日の丸が入ってます)
(この時は、まだ日本的な狛犬?)
(上記画像は、CARグラフィック誌 1966年12月号 より転載)
その117クーペはすぐどっかへもってっちゃった。試作にはそんなに長く置いてなかった。 ドアの下に日の丸の入った117クーペを見た時に、鈴木氏ははたして自分たちにこの車が作れるだろうか、とも思ったそうである。その機会はさほど経たないうちにやってきた。117クーペのいすゞでの生産が決定、まず7台を試作で組み上げることになるのである。
そのための技術指導で、4人のイタリア人が試作にやってくることになった。ジョルジョ・サルジョット、ボーリ、ルチアーノ、そしてブルーノである。サルジョットはトリノに工房を構えていた人物で、先の1961年~62年にはプリンスでスカイライン・スポーツの生産のアドバイザーを務めた経験があった。いったんトリノへ戻ってからはカロッツェリア・サルジョットを主宰し、フランコ・スカリオーネ・デザインのランボルギーニの1号車のボディを手がけている。
彼らが来たときに浅田班長から、割合早い時期に、君は彼らについてイタリアの鈑金方法を覚えるようにって言われて、世話係っていうことでね。いや、サルジョットさんはプリンスにいたことがあるから、片言の日本語は知っていた。難しいことは通訳の人がいたから、その人がやってくるのを待って話をしたけど、仕事をやるうえでは不便は感じなかったなあ。
サルジョットさんはね、実際に鈑金をやってみせるということはあまりなかったですね。オートハンマーとかの機械の使い方を指導するくらい。実際に指導してくれるのは残りの3人。だけどボーリさんていうのは木型専門だったけど、都合で割合早く帰っちゃった。
だから僕らが一番良く教わったのはルチアーノとブルーノの兄弟。オートハンマーなんか使う時も、うまくいかないと段々カッカしてくるでしょ。大きい板を支えてると、次第に落ちてくるわけ。彼らは体がでかいからそんなことないんだけど、ぼくらはどうしても板を支えきれなくなって落ちてくる。そうするとカッカして言ってくるんだけど、ぼくらは何言ってんのかわかんないから、あー、怒ってんなあ、ぐらいしか感じない、アハハ。
でもその頃はね、仕事が終わってから定盤の上をかたずけて、工場で親睦会なんかをやったんですよ。そん時にルチアーノ、ブルーノ兄弟から蛍の光のイタリア語の歌詞を教わったりしてね。今でも最初の部分だけ覚えてますよ。ドマーニ、、、、で始まるんですけどね。
それである時ね、昼休みに退屈だろうと思ってバットとグローブを持って行ったの。そしたら、もっと大きいボールを持って来てくれって。バレーボールがあったからそれを持って行ったら、ちょっと首をかしげてたけど、蹴ったらすごいスピードだった。野球は全然知らなかったんですねえ、サッカーだけで。
そんなことしてたから、ルチアーノ兄弟と親しくなったんだけど、彼らにしてみればスズキっていうのは呼びにくかったんでしょうね、あるときから、君の名前はカメロー(CAMILLO)だと。
彼らは川崎駅前のホテルに泊まって、3人でベレルに乗って通っていました。運転はいつもサルジョットさん、一番日本の道路に慣れていたからでしょうね。一度ルチアーノ兄弟から招待されてね、そのホテルのバーに行ったわけ。ホテルのバーに行くんだからって、めったにしないネクタイ締めていったらさ、突然そのネクタイを切られて、切り離した方をピンで壁にとめたのさ。あとで通訳の人に聞いたら、北イタリアではそれが兄弟のように親しいっていうしるしなんだって。
その人達が来る時に、イタリアから工具を一揃い持ってきたんですよ。ちょっと専門的になりますけど、それをあげておくと、クラフト・フォーマー、ハンド・フォーマー、オートハンマー、5本ローラー、鈑金用の山あげ臼と木ハンマー、叩きならし台、鈑金ハサミ、ならしハンマーなどですね。それまでの試作は私の京成自動車時代と変わらない工具しかなかったから、これで一気に充実したといえるかもしれませんね。
そのうちのひとつだけ例をあげると、イタリアの板金ハサミは日本の物のようにガタガタにはなっていないんですね。日本のはゆるくなっていて、手を放すとした側は自然に下りるようになっている。イタリアのは手で下へ押し広げないといけないんですね。がっしり組んであるから。それで上が太くて下が細いのかな。カーブのところを切るのには便利だったようですね。
その頃に117クーペの7台の試作が始まりましたので、彼らにそのパネル製作の技術指導を受けました。私は石井先輩と一緒に左右のリアクオーター・パネルを作りました。それぞれの部分の木型ができていて、それに合わせて作るわけです。その時に彼らから教わったことを書いてみましょう。
1.パネルの線の流れをよく見ること。
2.基準になるガバリ(ゲージ)を長く作れ。
3.パネル製作はできるだけ溶接を少なくする。また、溶接するときはでき
るだけ長手方向に溶接する。
4.スケールをあてがって、面のゆがみを見る。
5.一部分だけ見ずに、全体を見て作る。
6.プロトタイプなどの外板を作るときは、寸法より長めに作って、最後に
必要なサイズにする。
7.特にプロトタイプ車では、寸法主体ではなく、感性で作ることも大切。
8.仕事を集中してやることは良いことだが、目先が小さくなるので、時に
は余裕を持つことも大切。
9.次に何を行うかを考えて仕事をする。
10.美しいものを見るように。日本には多くの仏像などがある。特に仏像
のもこし(着物)の線は美しい。...
私達には上の人がどう考えたのか、まではわからないんですけどね、イタリアからの人達が来るのに合わせて、川崎の工場の中に波板で仕切った試作第二工場が作られたんですよ。カロッツェリアのプロトタイプ製作を学ぼうってことだったんだろうと思います。それまでの日本のやり方とは全然ちがったものでしたね。床を低く掘って、横から車のボディの下へ入れるようになっていました。外形は木枠ではなくてケージです。
その第二試作工場には、前から試作に置いてあった木型を入れました。それは量産にはならなかった試作の一つだったんでしょう。それでイタリア方式を学ぼうってことだったと思いますけど、そこで作ったのはごく一部分だけで、完成まではいきませんでしたね。
というのは、かれらはいすゞに詰めっきりだったわけではないんですね。時々別の会社、高田工業なんかにも行ったと思いますし、ビザの関係で一度は台湾へ行ったんじゃあなかったかな。
最後は三人ともバラバラに帰ったと思います。いすゞの最後の日には、これだけ親しくなったんで、壺を買ってプレゼントしました。で、ルチアーノとブルーノは、イタリアへ帰った後もしばらくの間は絵ハガキのやりとりをしていました。こっちからはカタコトのイタリア語で書いて、向こうからは日本語で書いてきました。今は通信が途絶えていますけど、どうしているでしょうねえ。
そういえばいすゞでの仕事が終ったあとも、サルジョットさんは日本に残ったんですね。しばらくしてから、南武線に乗ろうとしてると、カメロー!って呼ばれたんです。サルジョットさんでした。しばらく二人で立ち話をして別れたんですけど、日本の会社の名刺をくれましたね。そこでまた技術指導をしていたんでしょう。1999年にはイタリアへ帰って亡くなられたそうですね。(続く)