「日本特有の自動車発展史」6

日本特有の自動車発展史 6

自動車史 キュレーター  清水 榮一

第5章 輸出から地産地消へ安定成長期に海外投資にシフトした自動車産業

第1節 安定成長とバブル景気、海外市場へ

日本は人びとも企業も勤勉に努力し、“一億総中産階級”として“機会の平等”と“結果の平等”の両立性に疑問を抱かず励んで来たが、1970年代2度のオイル・ショックは日本の全産業の種類と企業の順位を変えた。電機機械、自動車、一般機械等の組立て加工産業が伸長した一方で、アルミ精錬、石油化学等の素材産業は低迷し、同じ自動車産業でも企業間格差が拡大した。1960年代からオイル・ショックを経て70年代末までの20年間に国策と連携を図りつつ、ヒト、モノ、カネの経営資源をバランス良く舵取りした企業が1980代以降のグローバル展開に於ける成功への片道切符を手にする事になった。

日本の企業が他の先進国よりもオイル・ショックを早期に克服出来た要因は、長期的視野に立った経営に加えて、市場ニーズに即した迅速な商品開発と効率的な生産方式によるモノ造りを進めた結果、貿易収支の黒字を拡大出来、円高によって石油や輸入原材料を安価に調達出来たことも寄与している。

一方、英国や米国では1970年代から「大きな政府」を見直す気運が台頭、サッチャーやレーガンが“新自由主義政策”を推進、日本でも1980年代の政治・社会の改革路線となり、JR、NTT、道路公団、郵政公社等々が民営化し、「市場公開」と「競争導入」が進み1990年代には本格的な効果が顕われた。

また、1985年のプラザ合意で米国から日本は円高・ドル安政策を強要され、1989年には東西ドイツ統一に伴う東欧諸国の低賃金攻勢が始まり、中国の躍進も目覚ましくなった。

IT革命の進展と共に企業運営は①小組織で意思決定を迅速に ②垂直統合から水平分業へ ③米国との経済交渉のテーマは自動車から水平分業型産業や金融業に変わっていった。   

自動車産業は日本国内では新規需要から代替需要になり、米国、欧州、東南アジア諸国への輸出が拡大し現地生産に軸足を移し始めた。米国では小型車生産が不得意であった為に日本車が大歓迎されたが貿易摩擦を生じ、1981年以降日本は輸出自主規制を迫られ現地生産へ移行した為、日本のメーカーは設備投資費が大きな負担になった。

また、バブル景気の頃(1980年代末)に日本国内では高級グレードの乗用車が良く売れたので新規投資を増やし損益分岐点が高くなったが、バブルが弾けるとサプライヤーを巻き込んで大規模なリストラとコスト・ダウンに方向転換した。

しかし、1990年代末には現地生産の採算性は何とか軌道に乗り始め、為替変動の影響は低下したが、現地開発による収益の捻出は21世紀に持ち越された。

第2節 官の創意と民の協力    

1990年に日本の自動車生産は1349万台を突破した。10社以上の自動車製メーカーが競争しつつ共存して来た足跡は他国には見られない切磋琢磨の証でもあろう。

日本特有の発展要因は、①各時代の社会要請に基づいた行政指導と自動車業界内の合従連衡、②新進気鋭の新興資本と間接金融、③商用車から出発し機を捉えた乗用車への転換、④メーカーとサプラィヤーが協力する開発体制、⑤強固な系列販売チャネルと相俟ったマス・マーケテイングの浸透と道路・通信等のインフラ整備の拡充が挙げられよう。

因みに、通産省は日本の全輸出産業の貿易摩擦を最小限に抑える最適解を模索した結果、自由貿易主義の原則に則り日本からの輸出自主規制を各メーカーに懇請し、各 メーカーもこれに協力した。 

第3節 自動車メーカーの主な動き

1979年 トヨタ 輸出累計10百万台達成 

 1980年 日産 米国日産自動車製造設立

 1981年 スズキ GM いすゞの両社と資本提携

 1982年 トヨタ 自工と自販が合併

 1982年 ホンダ 米国のオハイオ工場稼働開始

 1983年 トヨタ GMとの小型車を合弁で生産する計画に調印

 1983年 ホンダ 英国BL社と乗用車の共同開発に調印

 1984年 日産 英国自動車製造会社を設立

 1987年 日産 米国にインフィニティ・チャネル設立を発表

 1987年 トヨタ 米国にレクサス・チャネル設立を発表

 1990年 軽自動車規格 エンジン排気量拡大(660ccへ)

 1993年 日産 座間工場閉鎖を発表

 1997年 トヨタ ハイブリッド車・プリウスを発売

 1999年 ルノー 日産に資本参加

  第4節 宅急便の功績                        

自動車の基本的な機能(便益)は「運ぶ」ことだが、世界人口約74億人の内、自動車の便益に預かっている割合は凡そ30%、約52億人は未だ自動車とは無縁の生活だそうだから、先進技術も必要ではあるが、是非、50億人の人々にもフツーの自動車を活用して豊かな生活を取り入れて欲しいと思う。

日本では1960年代に乗用車のエントリー・カーが発売された史実に比べて、1976年に商用車のヤマト運輸が「宅急便」を商品化して企業や人々を幸せにして来た実績はあまり知られていないのは甚だ残念に思う。この様な地味な、しかし革新的な企業活動こそ「車を活用した企業貢献」と言えよう。

私の父は国鉄マンで貨物畑を歩いたが、「鉄道貨物の速度は平均僅か8キロと実に遅い。トラック貨物は3倍以上速いが運輸省管轄の営業免許制度と運賃体系が複雑」と当時、宅急便事業の課題を憂えていた。

しかしヤマト運輸の小倉昌男社長の宅急便に対する情熱と先見性と確たる自信は、「集荷と配達に手間は掛かるが、極めて高い便利性は1個当たりの単価を高く設定出来る。鍵は小口便市場を如何にして大量に創り出すか?・・・それは地域内の需要密度を高めることに尽きる」との鋭い洞察力が基本になっていると思う(この点は自動車の販売にも通じるが)。営業開始の1976年に170万個でスタートし、4年後には3,300万個と約20倍になり、国鉄の手荷物は3,900万個に半減した。

宅急便事業のポイントは概ね次の6項だが、何れも小倉社長でなければ克服出来なかったであろう。

(1)商品化・・・・・以下の項目を若手社員中心のワーキングループで     徹底的に研究し魅力的に。

   ①商品名    ②対象品  ③営業区域と拠点新設 ④サービスの差別化    ⑤料金体系 ⑥集荷体制  ⑦取次店募集と宣伝  ⑧伝票様式   

(2)情報システムの構築・・・荷物の追跡に即答

(3)搬送車両の企画・・・・・・デリバリー・バンの特注

(4)従業員と労働組合の協力体制

(5)海外進出計画

(6)財務体質の強化

第5節 私の日記から

1970年代の日本は新車販売が激戦を極めたが、1980年代中頃には一巡し新車需要は減少し始めた。この頃から日本に自動車産業は海外市場に重点をシフトさせて行った。そして1990年代初頭には戦争直後に働き盛りであった人々は70歳を超え、戦後に生まれた人々も50歳になり、国土の狭い日本には「二世帯住宅」が定着し「RV」や「SUV」や「軽」が市民権を獲得し始めていた 米国では1930年代のモータリゼーション開花期にGMが大衆車のシボレーから高級車のラ・サールに至る「商品ハイラルキー」を築いて上級移行戦略を展開してフォードを抑えトップの座に就いた。

(日本自動車工業会「自動車統計年報」等に基づき、三菱総研作成)
 

①販売実務の経験

その頃、私は41歳、販売会社代表として出向した。以前の販売会社が経営を断念せざるを得なかった程、毎年、需要が減少する現実に鑑み、中古車部門とサービス部門に力を入れたが、基本的には新しい地場資本企業と合併する道を模索した。自動車販売は根性と脚で稼ぐ時代は既に終わっていた。即ち、「戦略の失敗は戦術では補えず、戦術の失敗は戦闘では補えない」という真理に従った。

②マーチャンダイジン

1989年、私は自動車メーカーに復帰し、当時話題になっていたBe1等のパイク・カーとRVのマーチャンダイジングと販売促進の責任者を拝命した。「クルマ・フリークの清水は何か面白い企画をするだろう」と先輩の役員が配慮してくれたお陰だった。休日は大型バイクも大いに愉しんだ。

(S-Cargo)
(BMW R100RT)

③輸入車から学んだ事

日本車は仕事で試乗する機会が多いので、私は自家用には輸入車を購入して日本車との違いを体感した。お国柄を反映した設計思想、その国の自動車産業構造を髣髴とさせる生産品質、異国の市場動向とマーケティング戦略を証明する商品特質等、各車とも異なっていて大変参考になった。

印象的なクルマと感想は次の通り。

  ・シトロエンGS  

1973年、欧州のカー・オブ・ジ・イヤーに輝いたワケを納得。すべてが合理的な機構。

品質の信頼性をアフター・サービス体制で補完する合理的な市場戦略。

  ・ポンテアック グランダム   

コンパクト・カーの第3世だが、設計品質、生産品質ともにイマイチ。

  ・マーセデス 560SEL  

某財界人のオサガリでメインテも良く、大型の割には小回りが効き、安全性も抜群。

しかし、オートマチック・ミッションの耐久性は期待外れ。

(シトロエン GS)
(ポンテアック グランダム)
(マセードス 560SEL)

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