自動車史キュレーター 清水榮一
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6、 アメリカの時代と自動車(その3)
コ ン テ ン ツ (目次)
*分割掲載(全4部・今回は青文字の項を掲載)
Ⅰ. アメリカ自動車社会の印象・・・・・・・・・・・・・p.1
Ⅱ. 人々・企業・国家そして自動車・・・・・・・・・・・p.2
(1)人々、企業、国家の連携活動く・・・・・・・・・p. 2
(2)自動車は人々の思想と価値観を映す鏡・・・・・・・p. 3
Ⅲ. アメリカの発展プロセス(要約)・・・・・・・・・・p.4
Ⅳ. アメリカ社会の思想と価値観・・・・・・・・・・・・p.7
(1) 実用主義 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p. 7
(2)人々の大移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p. 8
(3)アメリカ音楽の多様・・・・・・・・・・・・・・・p. 9
Ⅴ. アメリカの道路事情・・・・・・・・・・・・・・・p.11
Ⅵ. 良き時代のアメリカの自動車産業・・・・・・・・・p.13
1.アメリカの人々が乗用車に寄せた夢・・・・・・・・p.13
2.アメリカ自動車企業の特徴的な活動・・・・・・・・p.14
(1)作業工程の合理化と価格引下げ・・・・・・・・・p.14
(2)画期的なマーケティング戦略・・・・・・・・・・p.15
(3)組織と企業風土・・・・・・・・・・・・・・・・p.17
(4)デザイン戦略・・・・・・・・・・・・・・・・・・p.18
(5)ボディ&ユニット戦略・・・ ・・・・・・・・・・・p.23
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p.26
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第2回目に続いて、今回もアメリカ自動車産業の特色とその根底に存在したアメリカの人々と企業と国家の動き、そして僅かながら、そのバック・ボーンとなった思想や価値観もお浚いしてみたい。どうか独断と偏見をご容赦戴き、忌憚のないご意見を戴ければ幸いです。
18世紀半ばから19世紀に花開いた産業革命ではイギリス、フランス、ドイツが大発展を遂げたが、20世紀前半の2度の世界大戦後ではアメリカがイニシアティブを執った。因みに世界の自動車生産台数は第一次世界大戦前後(1910年代中期~1920年代初期)と第二次世界大戦前後(1940年代初期~中期)は、その約8割がアメリカ製だった。この背景にどの様な要因があったのだろう?
・以上、駆け足で見てきた様にアメリカは多くの移民国家ゆえに多様性に富む思想と価値観に富み、果てしなく広大な移動空間に最適な自動車を効率的に提供するか?という点に重点が置かれ、それ故に大量生産方式とマーケティングのスキルを磨いて行った。加えて関連する産業界に於ける次の諸要因もアメリカの自動車発展を加速した。
(1)自動車燃料や製造資源の石油、鉄鉱石等の天然資源が豊富に埋蔵されていた。
(2)自動車を購入出来る中間層の人口比率とその経済力が増大した。
(3)自動車の関連産業(鉄鋼、化学品、繊維、建設、運輸、金融、保険、通信等)の経営基盤が確立されつつあった。
(4)道路や通信等のインフラ整備がコミュニティ(州やカウンティ)単位で、鉄道敷設より簡易に早急に進められた。
(5)19世紀末までに自転車が12百万台も生産・販売されて居り、人々の移動意欲が旺盛であった。
⒈ アメリカの人々が乗用車に寄せた夢
多様性に富む思想と価値観から生まれる人々の夢と商品企画コンセプトと代表的な商品の推移は概ね以下の処であろう。
人々の夢、価値観 | 商品開発のコンセプト | 代表的な商品 | |
起業~第二次世界大戦 | ・逞しいフロンティア精神 ・自動車を所有し行動範囲を拡げたい | ・安価、頑丈 ・大量生産戦略(フォード) ・上級移行戦略(GM) | ・フォードT ・シボレー ・キャディラック |
大戦後~1970年代 | ・強く、逞しく、豊かなアメリカ ・豪華な物質的満足(アッパー・クラス) ・平和な生活(ミドル・クラス) ・都市と郊外の併存 ・女性の社会進出 ・人権運動 | ・大型化、大出力、ソフトなサスペンション ・豪華な居住空間とエクステリア ・ジェット戦闘機のデザイン ・操作の簡易化(オートマ、パワー仕様の拡大他) ・サブ・コンパクト・カーの追加 | ・キャディラック ・シボレー ・フォード・カスタム ・マスタング ・ポンティアックGTO ・コ―ベア |
1980年代以降 | ・省エネ 安全・公害対策 ・保護主義の台頭 | ・ダウン・サイジング化 ・FF化 ・マルチ・パーパス・カー | ・ピック・アップ・トラック ・4WD仕様車 ・ダッジ・バン |
ビッグ・スリーの車種構成(変形車種は除く)
高級車 | 中級車 | 大衆車 | |
GM | ・キャディラック(1903~) | ・ビュイック(1903~) ・オールズモビル(1903~) ・ポンティアック(1926~) | ・シボレー(1911~) |
フォード | ・リンカーン(1920~) | ・マーキュリー(1938~) ・エドセル(1957~) | ・フォード(1903~) |
クライスラー | ・インぺリアル(1954~) | ・クライスラー(1923~) ・デソート(1928~) ・ダッジ(1914~) | ・プリムス(1928~) |
⒉ アメリカ自動車企業の特徴的な活動(1960年代まで)
・次の概念図は大部分の製造企業が収益極大化に向けて展開する活動プロセスである。 先ず、優秀な人材と組織と企業風土によって経営方針が策定され市場分析が行われる。続いて戦略方針、即ちデザイン、ユニット・ボディ、価格・チャネル等の戦略を策定し、商品開発と販売促進の実務に継承する(ref. 商品開発は包括的に捉える為にマーチャンダイジングに含めた)。その後、商品がユーザーに納められて収益が計上される。これらの活動に大きく影響する要素が資金力、技術力、生産力、販売力等である。
・周知の様に自動車はヨーロッパで発明され試作されたが、一国の基幹産業として確固たる経営基盤を確立したのはアメリカであった。
既に述べたが、アメリカが自動車産業のキャスティング・ボードを握った本質的な背景には多様性に富む人々がフロンティア精神と独立自尊の思想を旗印として、実用主義(プラグマチズム)を価値観の拠り所に企業と国家を大きく成長させた点に注目したい。
平たく言うと、偉大な政治家や実業家が自らの力で多くの人々を味方につけて人々の意向に沿う様に政治やビジネスに勤しみ、人々が日々、安全に豊かに愉しく過ごせる政治・社会・産業の基本システムを真の民主主義思想の下で構築・進化させた結果である。
・一国のモータリゼーションの進展は単に自動車の性能やスタイルの良し悪しの前に、先ず自動車という私的な移動を担う生活道具への人々の強いニーズと購買力、企業間の自由競争による発展、国家による社会公共システムの構築等が前提となる。
この意味で公共的な鉄道による移動機能も侮りがたいが、アメリカの場合は私的な移動を叶える自動車への期待が大きかった。
・ヨーロッパの自動車企業には機能や性能に重点を置いた“技術牽引型”の戦略志向が強いが、アメリカの場合はあらゆる人々が購入出来る品揃え、運転操作のし易さ、質感のあるデザイン、快適な装備等を重視した“イージィ・ハンドリングと居住性優先型”であった。
その理由はどうやら次の3点に要約されると私は考えるが如何であろうか?
①アメリカには建国当時から広大な大陸の移動手段にステージ・コーチや自家用の馬車を利用する習慣が根付いていたので馬車や自動車は特権階級に限られず身近な乗り物であり、自分の努力次第で自分が望む商品を購入出来た。
②多くの種類の天然資源に恵まれ、第二次産業革命を経て人々の労働意識が高く、物財と情報の移動に関する価値観と経済的な余裕も高かったので、難しい技術的な要求より誰にでも扱える普遍的な快適性とフランクなステータス性が好まれた。
③自動車に限らずアメリカの製造企業が重視した付加価値拡大の戦略が“量産・量販”であったので、より多くの消費者が手軽に馴染める商品企画と販売促進に重点が置かれた。
・以上の様なアメリカの人々の思想と価値観の多様性を反映した自動車観に基づいて、一連の方針、戦略、実務が展開されて行った。
先ず多様性に富むユーザー層の最大公約的な購買動向情報を綿密な市場調査(マーケティング)、続いてこれに即した戦略方針を定め、商品開発(マーチャンダイジング)と販売促進(マーケティング)の実務を展開した。
代表的な企業活動としては、先ずH.フォードが商品開発実務に於ける「作業工程の合理化」に挑み、続いてA.スローン(GM)が「ブランド・ピラミッド」と「事業部制組織」に挑んだ。敢えて例えるならH.フォードはマーチャンダイジングの面で、A.スローンはマーケティングの面で成功を収めたと言えよう。
以下、ビッグ3の功績に就いてその要点を記し、その後、代表的な企業(ビッグ3)が特に重点を置いた次の3つの活動にも触れる。
・組織・企業風土 ・デザイン戦略 ・ボディ&ユニット戦略
(1)作業工程合理化と価格引下げ(フォード)
・“作業工程の合理化”とは予め規格化された標準的な大量生産方式で、生産作業を多数の工程に分割し作業者は専門的な単一職能の工作機械を使って個々の部品を製造する。別の作業者がこれらの部品を合体して半完成品に組み上げベルト・コンベヤーで後工程に送る方式で、多民族国家による作業の質と量にバラツキを最小限に抑えて標準化と専門化を徹底する方式である。
・1908年に発売されたフォード・モデルTは標準部品やコンポーネンツを統一する等のハード面の合理化に加えて、当時としては画期的だった流れ作業による大量生産によって価格の大幅引下げて驚異的な1,500万台もの自動車を販売した。
フォードはモノ(商品 PRODUCT)の生産面と価格(PRICE)に重点を置いた経営方針を貫いた。一例を挙げるとモデルTの塗装が大部分が黒色だった理由は「塗面が早く乾燥する」、「一種類の塗料を大量に購入すれば製造コストを下げられ、作業工程も簡素化出来る」等、製造上のメリットを享受したが、進化するユーザー・ニーズを反映した商品を提供するマーケティング戦略では後手に回った。
(2)画期的なマーケティング戦略
①マーケティングの基本4要素
・マーケティングは企業活動の付加価値を高め為の基盤となる戦略で、次の4つの活動で構成される事は周知の処だろう。
とりわけ、「商品とは便益が集積したもの」と評されるほど、ユーザーが求める諸々の便益を商品が内包しているが、ここで重要な点は、便益の提供は単に商品だけでは成立出来ず、価格、流通、販売促進等の有機的な活動が大前提である事実である。
・英国は世界中に植民地を持っていたので、本国の企業が生産した財を過剰在庫になる前にそれぞれの植民地に売り捌く事が出来たが、アメリカは事情が異なった。アメリカでは19世紀に入ると大規模農業がほぼ確立し、次第に製造業が拡充し始めたが、科学技術の分野では19世紀後半になってもイギリスやドイツより遅れていた。
・19世紀末になり、ようやく消費経済が成立し新たに台頭して来た製造企業に雇われた商人達には生産品の過剰在庫を招かない様に大量に小売業者に販売を促進する活動が必要になった。
例えばフォード、コカ・コーラ、P&G(The Procter & Gamble Co.)等の新進の気鋭に富んだ大企業は地域別、販売店別のマーケッター制を採用し潜在顧客を開拓した。
この業務はまさしく“開拓者精神”を前提とした厳しい活動を必要としたが、この時代に製造メーカーと市場を繋ぐ新しいマーケティング戦略が発案された。
・実はマーケティング活動の進展もモータリゼーションと同様、ヨーロッパ先進国に比較してアメリカの進展が著しい。
その要因は、消費者、企業、国家共々、多様性に富む人々がフロンティア精神と独立自尊の思想を旗印として、実用主義(プラグマチズム)を拠り所に多くの人々(消費者)を味方につけつつ成長する為にはマーケティング活動こそがその基本なのであった。
・“マーケティング”という単語はmarket(市場)にingが付いて“商人が販売の促進活動をする”との意味である。事実、マーケティング活動はアメリカの消費文化と深く関わりながら人々の消費生活を質量共々向上して行った。
因みに1907年から1910年のアメリカの業種別の国民所得は商業サービス業(広義)の割合が増加して16.4%となり、国を挙げて消費経済拡大の兆しが伺える。
農業19.4%、 鉱業3.4%、 建設業4.1%、 工業18.3%、 運輸・通信・公益事業10.9%、
金融・保険・不動産業13.0%、 サービス業(狭義)9.1%、 政府関係5.4%
・その後アメリカ企業のマーケティング活動は大いに発展、大学のマーケティング講義も開設され、1937年にアメリカ・マーケティング協会(AMA)が発足した。
第2次大戦の後、1950年代のパックス・アメリカーナ(Pax Americana)時代にはアメリカが覇権を握り、ヨーロッパ西側諸国と日本の軍事と経済支援を担った。この“核の傘”の下でアメリカの産業は更に発展しマーケティングの役割と定義も拡大して行った。この時代のマーケティング活動は概ね次の効果を生んだ。
(1)自社の現状を把握出来、ユーザーの要求する企業活動に役立った。
(2)価格に依存しない改善対策が明確になり、高ロイヤリティの顧客を得られた。
(3)新たに潜在顧客を獲得するノウ・ハウが蓄積された。
(4)コストを削減し、効果的に予算を使えた。
②GMのマーケティングとマーチャンダイジング
・前述したマーケティング活動4Pの内、Product(商品)とPrice(価格)は理解し易いが、Place(流通)とPromotion(販売促進)は我々の眼には映いり難いので少々解り辛いかもしれない。
有能なGMの首脳は刻々変化する自動車市場を分析してH.フォードとは異なる発想をした。それは“良質で安価な商品なら売れる”との一面的な見方とは別の2つのP(流通、販売促進)にも意を注いだ視野の広い戦略で、これにより業界トップの座を獲得した。
・GMの組織はフォードとは異なって経営者と商品開発者は別であり、企業経営の目的も第一に市場と株主を優先する方針であった。
GMの創業者・W.デュランは馬車製造企業を営んでいたが1903年に創設されたビュイック社を購入し、1908年に持株会社のGMを創業した。そしてキャィラック社、オールズ社、更に多くの部品メーカーも買収したが、買収費用が嵩んで運転資金難になり一時GMを去った。
彼はその後、シボレー社を起業し1915年にGMの株式買収に成功、副社長に返り咲いた。第一次世界大戦後の不景気には在庫が増え株価が暴落、大株主のデュポン社は1923年に48歳のA.スローンを社長に任命した。
この頃のアメリカの自動車生産台数は年間2百万台、保有台数は20百万台、自動車企業で働く人は200千人にも達していた。
・A.スローンは部品メーカーのH.ローラーベアリング社の社長も経験したが、単なる技術者ではなく企業を大所高所から俯瞰出来る組織運営能力にも長けていた。1916年にGMに移籍し経営改革の第一弾として中央管理機構(事業部制)を設けて財務管理を一元化し、マーチャンダイジングからマーケティングに至る新しい戦略を展開した。
マーケティング戦略の方針は、「フォードが開拓した大衆車市場を奪取し、更に大衆車ユーザーが容易に上級車に移行出来る戦略」を掲げ、市場調査を徹底した後に大衆車から高級車までを価格帯別に6グループにクラスファィした“ブランド・ピラミッド”を設定し、それぞれのブランド群(例:シボレー)には更に複数のグレード群(例:べレア)を設定した。
何れの車種も定期的なモデル・チェンジを展開し、商品の刷新と既設定商品の陳腐化を促進した。一例として商品のグレード名称(例:べレア)はユーザーが自動車生活の夢を拡げるに相応しいブランド名を冠した。また販売網の拡充にも注力し需要予測を正確に行って無駄の無い設備投資を展開した。販売分析を的確にする為に全国販売店の会計基準も統一した。
これらの戦略は極めて有効に機能し1924年から1927年に於けるGMのシェアは18.8%パーセントから43.3%に上昇した。
・ハーバード・BスクールのR.テドロー教授は讃える。「A.スローンはH.フォードに立ち向かった時にフォード・モデルTを凌ぐ性能の車を作ろうとはしなかった。フォードの車はこれ以上望みようもない最高の車だったので、A.スローンは“どんな人々の財布にも、どんな目的にもあった車”、即ち”商品ピラミッド“と定期的なモデル・チェンジ(陳腐化)によって自動車市場を大改革して大成功した」と。
余談だが、1980年代に日本が“世界に冠たる自動車立国”になれた背景にはフォードやA.スローンが果敢に挑んだ史実を正確に分析し、自社の戦略に適合させながら地道な経営を積み上げて行った史実に注目するべき・・・」と私は診ている。
(3)組織と企業風土(GMの場合)
①事業部制の展開
GMのA.スローンが商品ブランド別に事業部制組織(下記の表)を編成した事は既に触れたが、その主な目的は2つあった。
一つ目は事業部別の経営3要素(ヒト、モノ、カネ)の付加価値を明瞭にする事。二つ目は調整された統制を伴う分権化を推進する事である。
付加価値に就いては利益総額ではなく、実際の投資額に対する利益の割合(ROI return on investment 投資効率)、即ち“能率の尺度”を明確にして経営状況を判断する事であり、投資効率の良い順に時期の再投資を展開した。
また、調整された統制は能率化と節約を齎し、分権化は創意工夫、責任、人材開発、柔軟性、事実に基づく意思決定等の適応力を高めた。
②企業風土・人材
下記の組織表(1921年)で株主が筆頭に掲げられている事からも解る様に、“出資者に収益を還元する事”が風土形成の源であり、業務は事業部単位で遂行されたので、その成果も速く解る為、各事業部の責任者層は自己部門の利益拡大と全社的な調整との相克と闘いながら互いに切磋琢磨して行った。
フォードの場合は全ての権限と意思決定を一元化しようとしたが、GMは逆に分権化(意思決定の自主性尊重)による全社業容の質的量的な拡大を目指した。
企業風土を活性化させる為に果たしてどちらの方法がベターであろうか? これは永遠の課題でもある。
その3 おわり