「もう一つの自動車史」7

自動車史キュレーター 清水榮一

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アメリカの時代と自動車(その2)

コ ン テ ン ツ (目次)  

 分割掲載(全4部・今回は青文字の項を掲載)

Ⅰ. アメリカ自動車社会の印象・・・・・・・・・・・・・p.1

Ⅱ. 人々・企業・国家そして自動車・・・・・・・・・・・p.2
(1)人々、企業、国家の連携活 動・・・・・・・・・・・p. 2
(2)自動車は人々の思想と価値観を映す鏡・・・ ・・・・p. 3

Ⅲ. アメリカの発展プロセス(要約)・・・・・・ ・・・・P.4

Ⅳ. アメリカ社会の思想と価値観 ・・・・・・・・・・・p.7
1、 実用主 義・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・p. 7
  2 、人々の大移 動・・・・ ・・・・・・・・・・・・p. 8 
 3 、 アメリカ音楽の多様 性・・・・・ ・・・・・・・p. 9

Ⅴ. アメリカの道路事 情 ・・・・・・・・・・・ ・・p.1

Ⅵ. 良き時代のアメリカの自動車産業・・・・・・・・・p.13
 1.アメリカの人々が乗用車に寄せた 夢・・・・・・ p.13
 2.アメリカ自動車企業の特徴的な活 動・・・・・ ・p.14
  (1)作業工程の合理化と価格引下 げ・・・・・・・・p.14
  (2)画期的なマーケティング ・・・・・・・・・・・p.15
(3)組織と企業風 土・・・・・・・・・・・・・・・p.17
(4)デザイン戦 略 ・・・・・・・・・・・・・・・・p.18
(5)ボディ&ユニット戦略 ・・・・・・・・・・・・p.23

 おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p.26

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先回(第1回)に続いて今般もアメリカ自動車産業の特色とその根底に存在したアメリカの人々と企業と国家の動き、そして僅かながら、そのバック・ボーンとなった思想や価値観もお浚いしてみたい。

18世紀半ばから19世紀に花開いた産業革命ではイギリス、フランス、ドイツが大発展を遂げたが、20世紀前半の2度の世界大戦後ではアメリカがイニシアティブを執った。因みに世界の自動車生産台数は第一次世界大戦前後(1910年代中期~1920年代初期)と第二次世界大戦前後(1940年代初期~中期)は、その約8割がアメリカ製だった。この背景にどの様な要因があったのだろう?    

. アメリカ社会の思想と価値観 

・アメリカは多民族の国家なので自由と平等の意識が高く、また自己主張も強く権利や意見をはっきり主張するが、お互いの歴史と文化の違いを認めて個性を尊重する。一般的に競争心が強く負けず嫌いで勝利に拘るが社交的でフレンドリーで感情表現も豊かである。 アメリカの大半の人々は、アメリカが経済大国になる事が出来たのは“資本主義が内包する優れたシステムの賜物”と認識して居り、企業と国家も多様化している人々のニーズを最優先する発想と行動が基盤になっている。

・1828年にボストンの新聞に、「旧世界(=ヨーロッパ諸国)では自分の教区教会の鐘の音が聞こえる地域から外へは出た事がない人間が沢山いるが、この国では誰も彼も動いている」と。因みに1950年代から60年代にはモーテルドライブイン・レストラン等の自動車生活に関わるテーマが多い。またアメリカ人の通勤は9割が自動車で、この背景には国の発展と共に多くの都市郊外に住宅が開発され、人々はあらゆる移動に自動車を使っている。

GMの社長J.ゴードンは1960年に「“あらゆる所得階層とあらゆる目的の為の自動車”と我々が掲げたスローガンは今でも適切である」と。事程左様にアメリカの自動車史を観る場合には、先ずアメリカの人々と彼らが築いた社会の思想と価値観を抑えておく必要がある。

以下に.人々、.国家、3.企業の項目別にアメリカの特徴に触れ、根底に存在する独自の思想と価値観に親しんで戴ければ幸いである。

.「アメリカの人々」に就いては実用主義と人々の大移動とアメリカ音楽の3つの視点から。

.「アメリカという国家」に就いてはアメリカ国内の道路整備の歴史の視点から。

3.「アメリカの企業」に就いてはマーケティング戦略とマーチャンダイジング戦略の視点から。

⒈ 実用主義(プラグマチズム)

・農民の中でも貧しい人々が移住したアメリカは、日々の愉しみは地域のコミュニティを中心とした交流だったが、勤勉な精神と日々の苦労が実り20世紀には世界をリードする大国になった。その発展の過程で馬車に続く自動車の出現は物財と情報を迅速且つ大量に移動した。更に自動車の普及と相俟って道路網も整備され、商品も広い範囲で交易が出来、自動車、繊維製品、飲料、煙草、保険、金融等のNational Brandビジネスが拡大し、多くの企業はユーザーの夢を叶えるマーケティング活動に力を注ぎ始めた。    

・1776年の独立宣言から1世紀後、南北戦争も終り(1865年)、用性を重んずる思想(実用主義)が尊ばれる様になる。

実用主義(プラグマチズム)は「思考や思想は実践と行動に反映されて実用的に機能しなければならない」、「理論と知識は実践と行動が基準になる」との主張であり、ヨーロッパに於ける従来の普遍的、絶対的、超越的理念の追究に終始した認識論とは異なって、相対的な文化や価値観も理解しよう」との主張である。まさしくアメリカ社会が自然発生的に生んだ自由かつ実践的な思想である。

議論好きで行動力に富み、結果にもこだわり、何においても最後まで諦めずに勝負強い・・・そうした気質も実用主義の一面であろう。

・世界の先進国が工業化社会へ転換し始めた時期、アメリカでもモータリゼーションが開花し自動車を利用する人々や企業や国家はその国の経済・社会色濃く反映しつつ購買行動や企業戦略や国政を展開したが、同時に自動車そのものが“新たな文化を創造する付加価値を持つ財”にもなって行った。

かのH.フォードは頑固な迄に自動車産業に没頭した背景には個人(ユーザーや乗客や荷主)、企業、国家に関する彼なりの思想、つまり、①人々が購入し易い価格、②企業が高収益を出し易い経営、③国家は社会システムを拡充するべき・・・との視点を貫いた。更にその後、GMがアメリカ社会の思想と文化を詳細に分析して画期的な経営戦略を展開し、フォードのトップの座を奪取した。

事程左様に自動車産業は“新たなブームやファッションを創り出す活動”であり、これはまさしく“その時代の思想と価値観をシッカリ捉えて商品に映し出す活動”そのものであった。

⒉ 人々の大移動 

  ・人々の大移動や移民はいつの時代も、より価値の大きなものに向かって進んで行く強烈なエネルギーの顕れ」と考えられる。

(1)西部へ  

・中西部は奴隷制がなく白人が多く東ヨーロッパや南ヨーロッパからの新移民の到着前に開拓はほぼ終了していた。1870年代以降、新移民も加わって東部沿岸から西部への移動が活発になった。その後、フロソティア消滅後もこの傾向は一貫して続いて来た。

 出典  U. S. Bureau of the Census 1975

(2)移民受入れ

アメリカ大陸はその広大な国土面積ゆえに世界の各国、とりわけヨーロッパ諸国からの人々が活発に移民して来た。彼らはアメリカ大陸内の各方面に移動し、いろいろな出身国の人々と交流しお互いの文化を取り込んで新しい社会と価値観を生み出した。 

・移民には三つのサイクルがある。第一のサイクルは独立後、西ヨーロッパと北ヨーロッパからアソグロ・サクソソ系白人プロテスタント(WASP)主体の旧移民と称されるグループでアメリカの建国に貢献した。第二のサイクルはアメリカが南北戦争を経験し大陸横断鉄道が完成し都市化と工業国に脱皮した1880年から1950年頃迄で、東ヨーロッパと南ヨーロッパ出身が増えアメリカ北部の工業化・都市化に大きく貢献した人々で新移民と称される。第三のサイクルは第二次大戦終了後のヨーロッバ以外の国々からの人々である。アメリカ国内の景気循環や移民政策によって複雑な動きをしながらも一貫して移民の流入は続いた。

出典  Eldridge&Thomas 1964
 当時のパス・ポート

(3)黒人の大量移動

・1910年代以降、多くの黒人が南部の農村から北東部の大都市へ移動し、その後の工業化に伴う労働力を供給し続けた。

(4)都市化の進展

・農村から都市へ人ロが移動するのとほぼ同じ頃から東ヨーロッパや南ヨーロッパの農民が移民の割合が多くなって来た。また都市圏の内部でも人々の移動が起こった。

 申す迄も無く、人々の移動と共に産業用、個人用の物資の移動も盛んになり、定期的な長距離輸送方式が定着し、その為の長距離の舗装道路が建設される様になって行く(後述の「Ⅴ. アメリカの道路事情」の項を参照方)。

(5)大都市からの流出(郊外化)

・1970年以降は大都市圏が成熟し始めて高額所得者から順次郊外に流出移転し、衰退に向かう大都市が現れた。                                                                                                                                                                                                                                                                              

⒊ アメリカ音楽の多様性

 ・フィラデルフィアの市民は口々に言う。「“世界広し”と雖も音楽がこれほど国民の中に広まっている国は我が国の他になかろう・・・」と。

確かにアメリカの映画と演劇とダンスは旧くから評価が高く、アメリカの音楽は極めて多様性に富んでいるので、アメリカの人々の自動車生活やマーケテイング戦略にも間接的に大きな影響を齎している

・アメリカで最初に歌い演奏したのは先住民(ネィティブ・アメリカン)で、イギリスが植民地を拓いて以降はアングロサクソン文化がアメリカ音楽の基本になった。アメリカ民謡には英国民謡に新しい歌詞を冠した曲が多く、アメリカン・カントリーやブルー・グラスに合わせて踊るスクエアー・ダンスやバーン・ダンスやクロッグ・ダンスが人気だった。南北戦争の兵士は各地出身の混成部隊であり、多様な音楽が融合し長距離鉄道とモータリゼーションの進展によって人々が広範囲に移動すると多くの種類の音楽が広く流布されて行った。

(1)クラシック 

・クラシック音楽は19世紀以前のヨーロッパの教会音楽が発展したもので、アメリカには入植者が持ち込んだ。1893年、A.ドボルザークの「新世界」は“新大陸・アメリカ”を謳っており、黒人の音楽が彼の故郷のボヘミアに似ている点が作曲の契機になった由。

・20世紀初頭には多くのアメリカ人の作曲家がジャズ、ブルース等から従来のクラシック音楽とは異なる要素を取り入れた。

因みに作曲家L.ゴットシャルクはニューオーリンズに於けるケイジャン、クレオール、ラテン、カリブ、アフリカ等の多彩な音楽を取り入れたピアニストとして活躍した。またG.ガーシュインはユダヤ系移民の家庭に育ち、ジャズの強い影響を受け、ジャズとクラシックを融合させ、1924年に作曲したシンフォニック・ジャズの「ラプソディ・インブルー」はジャズ語法による狂詩曲でアメリカのクラシック音楽を国際的に知らしめた。

(2)アメリカン・カントリー

・東海岸に到着いたアイルランドの人々はアパラチア山脈を南下してヴァージニア、ケンタッキー、キャロライナ、テネシー、アラバマ方面に定住し、ラジオ放送(WSM局等)から全米に発信した。これらの地方の民族音楽を基本にブルースやスピリチュアルも加わり、ブルー・グラス系とカントリー系に大別される庶民音楽が定着、ナッシュビルでのレコードのプレスは全米の80%に及んだ。

・楽器はヨーロッパから入ったフィドル(バイオリン)、ギター、ベース、アフリカからのバンジョー、その後のビブラフォンやハワイアンのスチール・ギターが加わった。ナッシュビルのライマン公会堂で毎週末にグランド・オール・オープリー(オープリーはオペラの意)が開催され、J.ロジャース、カーター・ファミリーらの歌手やソング・ライターやバンドが輩出した。

・第二次世界大戦後、ハンク・ウィリアムスに代表されるホンキー・トンクの曲は人気の留まる処を知らなかった。“気取らず、上品ぶらず、低価格”を是とする、まさしくアメリカ文化を表現したが、次第に洗練されナッシュビル・サウンドとしてコーラスも取り込まれ一世を風靡した。

1960年にはバック・オーエンスやマール・ハガードがロックやウエスタン・スイングをフューチャーし、ベイカーズ・フィールド・サウンドに代表される音楽に変化して行った。またシンガー・ソングライターのウイリー・ネルソンやウェイロンジェニングス等もロック系の影響を受けたアウト・ロー・カントリーを歌った。今尚、“アメリカ人の心のふる里”であり続けている。 

 (3)ブルース

・ジャズ、ゴスペルと共にブラック・ミュージックの代表。複合的なリズム、強いシンコペーション、ヴォーカルの掛け合い等が特長で、メジャー・スケールの第3、第5、第7の音を半音下げた音階(ブルー・ノートスケール)を使って哀しみを繊細に表現する。

・アフリカから奴隷としてアメリカへ連れてこられた黒人が南部のプランテーションで働きながら謳った。その後、ミシシッピー・デルタ地方から全米各地に向け発展して行き、20世紀初頭には教会や伝道集会でキリスト教の霊歌との交流が始まるとブルースを発展させたゴスペルが広まった。またブルースはジャズやアメリカン・カントリーにも多大な影響を与えた。

(4)ロック、ロックン・ロール

・カントリー・ミュージックやブルースを源にして1960年代以降、多様な音楽に変化して行った。ロックの母胎であるフォーク・ソングはその民族のプロテスト精神を謳うが、ロックもフォーク同様に人種、階層、政治・社会、戦争、性、ドラッグ等に関する若者の消費社会への反骨精神を謳い、ヒッピー・ムーブメントやカウンター・カルチャー等の社会運動が高まった時代に絶頂期を迎えた。

1964年にビートルズはアメリカでも全米チャートでヒットを連発したが、ビートルズ以外にもアニマルズやローリング・ストーンズ等の英国のロック・バンドがアメリカでヒットを出し、British Invasionと言われる盛り上がりを見せた。

・ロックン・ロールは「ロック&ロール」が正式な名称である。アメリカン・カントリーを基にラテンやカリブの音楽を採り入れ、1950年代にはテンポの速い跳ねたリズムのロカビリーが登場、エルビス・プレスリーが大ヒットした。

・ロックやロックン・ロールに使用される楽器は主役のエレキ・ギターにエレクトリック・ベース、ドラムス、キィ・ボードだが、自動車機器と同様に電子楽器がこの世界にも入って来ている点は興味深い。

   (5)リズム&ブルース

・アメリカがヨーロッパの先進国にキャッチ・アップし始めた1930年代に生まれた。大胆なリズムや過激な歌詞は当初、中流階級の白人には受けないと考えられ、ビジネスの面ではマイナーな存在であったが、その後エキセントリックな楽器のセクションを減らし、主に白人がカバーした結果、1940年代末にはヒットを出せる様になった。パット・ブーンやチャック・ベリーは日本でも人気があった。

   (6)ソウル・ミュージック

・ゴスペルを基本にしてリズム&ブルースと融合し非宗教的なテーマも扱っている。主な歌手にレィ・チャールズ、サム・クック、ジェームス・ブラウンらが代表的で、1970年代にはヒップ・ホップにも影響を与えた。

次の調査結果は1968年に行われたギャラップ機関の調査結果だが、神を信じる人々の割合はアメリカ人が85%と世界中で最も多く、信じない人は11%と極めて少ない。このアンケートからもゴスペルやソウル・ミュージックが広く支持されている背景が頷ける。

 出典  Gallup poll  1968

(7)ジャズ

・何と言ってもアドリブ演奏がジャズのキモであろう。ウッド・ベースやトランペットを始めとした各種の楽器の演奏も独特なテクニックが冴えるが、発祥地はケイジャン(非アングロサクソン系のフランス系移民)や黒人クレオール(フランスの市民権を取得した植民地出身者)が住むルイジアナ州・ニューオーリンズである。この街はカリブ海の島々に住む人々の交易や文化の交流地でもあった。

・19世紀に黒人クレオールは自らの音楽とケイジャン音楽を融合させ、集会パレードや葬儀で演奏するクレオールの大型バンドが初

期のジャズの基礎になり、やがてジャズはニューオーリンズからミシシッピ川を往く蒸気船で北上し、シカゴ等の北部の都市に広が

った。因みに当時のケイジャンは、ボブ・ウィリスに代表されるウエスタン・スウィングの影響を受けていたし、ジャズそのものがクラシック音楽の重要な構成要素にもなっている。  

・ルィ・アームストロングはビッグバンドによるスウィング・ジャズに重点を置く活動を展開したので、多くのミュージシャンや音楽ビジネス界に影響を与え、マイルス・ディヴィス等の異色なミュージシャンを生んだ。

1940年代後半から1950年代初頭にジャズはビバップ等も登場、速いテンポやメロディよりもハーモニーに重点を置いた即興演奏、減五度のコード展開等を特徴とした。ビバップの先駆者にはニューヨーク出身のチャーリー・パーカーとデイジー・ガレスビーがいた

(8)ラップ、ヒップ・ホップ

・1970年代にジャマイカ出身のクール・ハンコックのグループがニューヨークのブロンクスで立ち上げ、DJのMCでソウルやファンクやリズム&ブルース等のレコードを掛けていた。その後DJは曲のパーカッションブレイクの音を取り出す事によって繰り返すビートを作り、そこにMCをラップで重ねる様になった。

1980年代にはLL・クール等のアーティストも現れ、また政治的色彩の強い歌詞や社会意識をフューチャーしたり、ヒップ・ホップをジャズ・ヘヴィメタル・テクノ・ファンク・ソウルなどと組み合わせたりするアーティストも現れた。1990年代にオルタネィティブ・ヒップホップやジャズ・ラップ等も現れた。

(9)ハワイアン

・伝統舞踊のフラ・ダンスは11世紀頃にポリネシア先住民が唱えていた伝承神話をベースに歌と踊りが伝承され、初期のフラはハワイの王室や首長に捧げられる神聖な舞踊であった。大航海時代の後、プロテスタンティズムが流布され女性はムームーを着る様になり、次第に伝統舞踊が持つ意味は薄れたが、1880年代に第7代の国王・D.カラカウァがフラをリバイバルさせている。

・ハワイの先住民は神への祈りを大切にする伝統音楽とダンスを大切にしていた。太平洋戦争が終結後、1950年代にアメリカ人のウエブリー・エドワーズがハワイ島の観光ビジネスをプロモートする目的で有名ホテルのロビーに於けるハワイアンの演奏活動を企画し、ラジオやTV放送でアメリカ本土や日本に発信し、ハワイ・ツアーが人気を博した。

・使用楽器としてベースは基より、メキシコ人が持込んだ6弦ギターに加えて原住民が創作したウクレレ、スチール・ギター、スラック・ギター等が独特の楽器としてハワイアン音楽を特徴づけた。また同時にアップ・テンポを特徴とするポリネシアの島々の音楽(タヒチアン・ミュージック)も併せて世界中に発信され、特に1950年から60年に掛けて日本のポピュラー音楽はアメリカン・カントリーと供に“横文字系音楽”の双璧をなした。

Ⅴ. アメリカの道路事情

 前章までアメリカの自動車史を紐解くに当り、人々の実用主義や人々の大移動や音楽等に診られる思想の多様性と価値観に触れて来たが、広大な大陸を切り拓いて行った国家の道路政策とその建設状況に就いても触れておこう。

 ⒈ 17世紀中頃~19世紀中頃

 ・1663年当時、英国では既に有料道路が出来ていたが、アメリカでは馬車時代の18世紀末から北東部を中心に有料道路の建設が始まった。特にアパラチア山脈を越えて中西部へ入る道路を建設する為には莫大な資金を必要としたが、特定の州や地域に利益を齎す事業を連邦政府が実施する事は公平性の面から難しかった。そこで利益に関る州政府や地方政府や個人資本が遂行した。

・1800年から1820年頃までは“アメリカ産業革命の開始期”であり、“有料道路時代 (Turnpike Era)”とも称される。1840年代以降は先ず鉄道線路の建設が本格化した。蒸気機関車は時速10マイル程度ながら広大な大陸の都市の間を繋いだので人々や情報や物流の往来や運搬を出来る様になり、大量生産に基盤を置く近代工業化が定着し始めた。

 ターン・パイクの料金所    出典 「アメリカ道路史」 アメリカ連邦交通省道路局

⒉ 19世紀後半

・1860年代の南北戦争で鉄道は兵員と補給物資の輸送力向上に貢献したが、日々の軍事行動は馬車に依存していたので道路条件が作戦に影響した。農村でも日々の農作業と生活には道路は極めて重要であった。1900年には大都市に約8000台の自動車があったが、地方と連絡する道路は極めて不備で、道路標識、信号、ガード・レール等は無く、地図さえも不備だった。道路舗装は土木技師のJ.マカダムが安価で耐久性に富んだ工法を考案し、後にアスファルトやコンクリートに発展した。

     モーテル 1907年頃                                        粗末な路面  1930年頃                              
 

トラックが往く幹線道路 1920年頃    旧い各種の道路標識
出典  「アメリカ道路史」 アメリカ連邦交通省道路局

⒊ 20世紀前半

 ・1917年、アメリカは世界第一次大戦に参戦した為、トラックが増産されて軍を始め民間でも大活躍した。トラックの定期便はこの時期に起業された。自動車の保有台数は1921年の10,500千台から1929年には26,500に増加し、州の収入は122,500千ドルから763,400千ドルに増加したのでハィ・ウエィの建設も進んだ。

とりわけ1929年に始まった世界大恐慌の失業対策として、道路建設は自動車依存の生活様式を大きく加速したと言えよう。

・1945年に第二次世界大戦が終了し、翌年には乗用車の生産台数は2、100千台、3年後の1948年には3,900千台になった。大都市の渋滞は酷くなったが、インター・ステート・ハィ・ウエィも建設され、従来とは異なる上下線の分離、アクセス・コントロールの徹底を図った有料道路が増え始めた。道路整備がモータリゼーションを加速し、またモータリゼーションも道路整備を加速した。

・1950年代のパクス・アメリカーナ時代以降、ハイ・ウエイ拡張計画は更に推進され1960年代にはかなり拡張された。だが、南部の州では必ずしも満足な道路でない地域もあった。その理由は州の民力と道路の必要性(プラィオリティ)に比例して道路拡充が展開されていたからである。連邦政府の予算は社会福祉や公害対策や地下鉄網の整備等も賄うので道路が後回しになる州もあった。

大都市の大混雑         絶壁を切り開いた道路(ニュージャージー州)   出典 「アメリカ道路史」 アメリカ連邦交通省道路局
 

 その2 おわり

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