「もう一つの自動車史」3

自動車史 キュレーター 清水榮一

カーモードの源流 

[Ⅰ]ハードとソフトのハィ・ブリッド 

先回、私はこのブログ欄で「自動車が発明されてから今日迄の120余年間、一台一台の“愛しき益虫たち”にはハードとソフトの2つの生命が吹き込まれて来た」と記した(ハード~技術を充実するモノに即した活動  ソフト~使い方や愉しみ方を充実する活動)。自動車の存在はハードとソフトのハィ・ブリッド”とも言えるだろう。

ハードの世界は主に自動車メーカーの担当領域だが、ソフトの世界はユーザーが主役となって創造する領域だ。
日本自動車博物館を創設された前田彰三氏が仰っていた様に自動車の社会的役割は運搬(物流)であり、片山豊翁が語っていた様 に憧れの愛車で気ままな旅に出たり、お気に入りのファションで運転を楽しんだり、整備やレストアーをする等、自動車の個人的趣味の 側面もある。これらのユーザーが主役を担う2つのソフトを纏めて「移」と呼ぼう。

私の独断と偏見でハードとソフトから自動車の世界を俯瞰すると次のようになるが、読者の忌憚のないご意見を戴ければ幸いである。

[Ⅱ]「移」と「衣」に共通する史実

自動車産業と繊維産業は一国の基幹産業であり、「移(自動車)」は人々の暮らしの「衣」「食」「住」に多くの付加価値を提供して来た。また「衣(モード)」も「移(自動車)」に大きな役割を果たして来た。
今回は「移(自動車)」と「衣(モード)」が人々の暮らしや風習に深く関わり始めた黎明期(1890~1920年頃)の様子を探ってみよう。

「移」と「衣」の両ソフトには共通する次の3つの関係が伺える。
(1)自動車もモードも商品創りの基本は「暮らしを快適にする為のデザイン」であり、19世紀末からその国、その時代の先進文化をリ ードしながら、国の政治、経済、社会の近代化とも歩調を合わせて発展して来た。
(2)消費する人々の中心が次第に富裕層から中産階級に なり、生産体制も注文(オーダー)から量産(マス・プロ)に変っていった。
 (3)自動車産業とモード産業は共に新素材(鉄鋼、繊維、石油化学品)の開発と活用面で類似した発展の足跡を辿って来た。

世界のエネルギー消費量は約200年前の産業革命以降、19世紀末に農業から工業に脱皮したのを機に増え始め、20世紀に急増している。400万年生きて来た人類はこの20世紀だけで何と全体の60%以上のエネルギーを消費して来ているのだ。
具体的には、西欧で内燃機関が実用化し製造技術も信頼性が高まり、農業立国から産業立国に脱皮した。一方、女性の社会的認識も向上して動き易い機能的なモード・デザインや新素材が登場した。
これらの背景には一国の政治社会と産業経済が安定した事によって従来の思考や体制や技術から脱却し、ハードとソフトの活動を効果的に組み合わせ、多くの発明・発見が行われた結果、19世紀末以降、新しい「近代」を創り出せたと思う。

近代の産業デザインは19世紀末に家具等の軽工業や建築やモード界で装飾美を強化する活動から始まった。アール・ヌーヴォーと称される時代で1920年頃迄の30年間である。1920年以降は自動車、航空機、船舶を筆頭に建築、工芸、絵画、服飾、家具等のデザインは装飾美から機能性や実用性を尊重する様になり、モチーフを単純化する動きに変った。アール・デコと称される時代である。
更に1940年以降は、“美は機能の約束である“、”形態は機能に従う”の名句通り産業デザインが確立されていった(下記作図)。

[Ⅲ]「移」と「衣」の源流

周知の通り、馬車を尻目に自動車が初めて走ったのは19世紀後半の西欧で、先ず人や財の公共大量移動手段としてバスと貨物車が普及した。個人用の自動車は貴族や富裕層が所有した後、本格的なモータリゼーションが始まったのは1920年代の米国で、次いで英国、フランス、ドイツ等の西欧諸国も追従し、日本は1960年代中盤になった。

自動車の普及は人びとの生活に極めて高い自由度をもたらし行動半径を拡大した。遠距離にある求める物財を入手出来る様になり、自動車で長距離の旅をする事は全く新しい自由な世界を移動して探訪する文化価値の高い活動になった。
また、モータリゼーションと共に自動車メーカーも日進月歩する諸々の新技術を取り入れて付加価値の高い商品にする為に斬新なボディ・スタイルや内装を定期的なモデル・チェンジを展開して新型車への代替需要を創り出した。

一方、モード産業も絵画や音楽共々、自動車産業と同様に19世紀後半の西欧で貴族や富裕層を中心に発展の途に就いている。
「移」を創り出す自動車(カロッツェリア架装)と「衣」を創り出すモード産業(オート・クチュール、高級注文服)は、共にそのデザインと生産形態を変えながら初期の資本主義経済システムに適合し、推進していったと言えよう。

<1>1890~1920年頃

馬車に替った電気自動車 (広告 )
馬車に替った電気自動車 (広告 )


①ヴィンテージ期の自動車
馬車に替って自動車が発明され小規模ながら商品化され始めた時代である。
蒸気機関より小型で高効率なガソリン機関が新しい動力としてドイツで実用化され フランスンスで自動車に用いられた。1900年の第5回パリ万博は大成功を納め、 フランス、ドイツツ、イギリスのメーカーが出展し20世紀が自動車の世紀を告げた。
米国はフロンティアによる開拓が終わり、ロスアンゼルス等の西海岸の都市にも 豊かな中産階級が増えて経済が発展し、自動車産業は欧州に約10年遅れて 始まったが、造り易く使い勝手の良い自動車を大量に生産し始めた。

自動車が従来の馬車と異なる点は次の3点だ。因みに「ヴィンテージ」とは 「高級なぶどうを収穫する」(ラテン語)の意味とか。
<1>動力源が生き物(馬、牛)から機械(エンジン)に替る作業の改善 
  ・維持の手間(食餌等)の簡素化     
・機械整備知識の専門化    
<2>小型化、軽量化、高出力化、高速化、長距離化が進む
 ・安全運転方法の習熟     
・重量物運搬への対応    
・長距離ドライブの実現           
<3>耐候性、走行安全性の確保
 ・高速、長距離に対するユーザーの対応が必要           

日本自動車博物館に展示されているこの時代の自動車の装備やメカニズム、そして自動車文化に触れる愉しさをお薦めしたい。

1899年 ドデオン・ブートン
1917年 フォード 
 1901年 ロコモービル


1922年 ベルリエ

        

②自動車の構造と対応
自動車の黎明期の頃は信頼性も耐久性も低く、殆どの自動車にはフロント・ウインドゥ、ルーフ、サイド・グラスは無く、雨風を凌ぐには折畳み幌(ソフト・トップ)を装着する程度の居住性で、フェンダーの形状も悪路の土砂を完全には防げないので、しっかりした身支度や丈夫な荷造りをして乗車しなければならなかった。

自動車メーカーはエンジン、シャーシ、アクスルを内製したが、ボディ、シート、ドアーは馬車時代の流れを継承して外注であった。
1891年にパナール・ルヴァッソールがエンジンをフロントに置きパワーを後輪に伝えるレイアウトにして以降、各社ともコンポーネンツのレイアウトは次第に似たものになり、次第にボディも居住性の良いものが内製される様になった。

 家族でドライブ、但し好天の時のみ (作画)
オプション用のフロント・グラス (広告)
オプション用の大型フェンダー (広告)

③モード
今日ではフォーマルな服装は、昼間なら男性はモーニング、女性はアフタヌーン・ドレス、夜間なら男性は燕尾服又はタキシード、女性はロング・イブニングドレス又はディナードレスであろうか。
19世紀には英国が世界の覇権と主要な文化の頂点にあった。モードは既にT.P.O.によって服を選ぶ風習が根付いていた。晩餐会、表敬訪問、食事会、宴会、コンサート、観劇、音楽会、舞踏会、ミサ、結婚式、葬式等に臨むに際して、世の男性は「燕尾服」、「スモーキング(後のタキシード)」、「フロック・コート」、「ガウン」」、「スーツ」の5種類を使い分けたとか。
またフランスではフロックと称される乗馬服が流行した。コートの前裾を四角に切り取り後裾は長く、コートの後ろ側の裾が左右に分割されており乗馬や自動車運転に適したデザインであった。

女性の服装は英国ヴィクトリア王朝時代に流行した腰の後ろの部分を膨らましたクリノリン・スタイルが一巡した後、1870年後半からバッスル・スタイル(日本の「鹿鳴館スタイル」)が流行した。狭くウエストを絞ったシルエットで、体を成形するにコルセットを用いた為に重くて活動的ではなかった。
この頃、裕福な女性は時間と場所に応じて服を使い分けていた。午前中は部屋着や昼食用、午後は外出用、夜会服など日に数回着替えたので、高級注文服の「オート・クチュール」が盛況を呈した。ちょうど自動車のボディがカロッツェリアで創られていた時代と重なる。
その後、軽量鋼が開発され、クリノリンやコルセット、パラソル等、服飾品の材料として積極的に取り入れられ、製鉄技術の進歩によって大量生産が可能になったクリノリンは中産階級にも普及した。
1906年、コルセット不要のドレスが発表されたのを機に少しずつ婦人の活動的・機能的なファッションが支持を得るようになったが、フォーマルな服装は自動車運転には適さず、ショーファー・ドリブンの車に乗る場合に限って着用したのは想像に難くない。

そこで悪天候時に自動車に乗る場合は防水と防塵と保温に優れたゴムを主体とする材質のコート、マント、ハット、ハンチング、キャップ、等が一つのファッションとして定着していった。またグローブ、マフラー、スカーフ、更に目薬等の関連用品も市場に現れた。

紳士のフォーマル・ウエア―とバギー型
   幌自動車   (広告)         
若奥様のお出かけ (作画)
  ギンギンにおめかしして、どちらへ? (広告)
みんな揃って競馬場へ (広告)
家族でお出掛け (「シトロエンの1世紀」三樹書房より)  
1923年 車もモードも素敵 (「シトロエンの1世紀」三樹書房より)
“悪天候には勝てません。雨、雪、寒さ、強風等の服装対策は万全を!” (広告)
防寒コートに身を包みX‘マスの薪木を載せて雪道を往く (広告)
メット、ゴーグル、コート、ベール、スカーフ、ハット、ハンチング等(作画)
「快適な運転を約束する防水コート。イザという時でも安全に使えます」 (広告)
    “男性用&女性用の自動車用アパレル” (広告)
   柔毛と本革で縫製したコート、帽子等(広告)
柔毛と本革で縫製した自動車用ロングコート、(広告)
「目薬もドライブに効果的でーす!」 (広告)

<2>1920~1940年頃

①ポスト・ヴィンテージ期の自動車
第一次世界大戦が終わり、主要国の産業は更に発展を遂げ、都市の人口が著しく増加し、ラジオや映画等の新たなメディアも普及して人々の生活と価値観は大きく変った。
1925年のパリ万博に於いて「芸術(アール)と装飾(デコラシォン)の新しい様式」として、欧州先進国と米国と日本で開花したアール・デコの時代で、特筆するべきは米国の経済力が拡大しニューヨーク等で巨大ビルが建築され、大局的には米国が英国、フランス、ドイツ、スペイン等の欧州諸国に替ってその後の世界の覇権を握る時代になった点である。
しかしこの平和な時代も世界恐慌(1929年)と第二次世界大戦の勃発(1939年)に伴い終焉に向かった。

アール・デコとは自動車、航空機、船舶などの輸送機器を筆頭に建築、工芸、絵画、服飾、家具等のデザインの世界でも以前のアール・ヌーヴォーの装飾性重視から脱して機能性や実用性を尊重し直線と明快な幾何学模様モチーフとする新しい表現である。
この頃からデザインの意味が単に表現されたものを愉しむだけでなく、デザインが人々に伝わる事によって、人々の心を新しい方向に動かすという目的に変って来たと思う。
“美は機能の約束である”とか“形態は機能に従う”と言われる様に、機能から出発したデザインは、形状が単純化されていて余計な装飾も省かれているので大量生産・販売にも適しており、消費者にも使い勝手が良いのだ。

自動車の世界では1930年代は「ポスト・ヴィンテージ期」と称される。「ヴィンテージ期」の次に到来した自動車は機能面やデザイン面でも、かなり新進気鋭に富む展開となった。
この時代の自動車は国を担う産業としての基盤を築きつつあったので、自動車のデザインもまた新たな境地を拓く重要な過程にあった。とりわけ米国の自動車産業は1920年以降から活発な動きを始めた。米国には豊富な資源はあるが人手が不足していたので、機械化と合理化を進めるにはパリで発祥したアール・デコの合理的な考え方が受け入れられたのだ。
従来、商品の設計と意匠形状の設計は技術者が担当していたが、新たにレイモンド・ローウィを初めとするインダストリアル・デザイナーが活動する事によって、デザインの優劣が商品の販売量に大きく影響することが認識されるようになった。

日本自動車博物館には数々の貴重なポスト・ヴィンテージ・カーが展示されている。アール・デコの影響を受けた名車、量産に移行する
過渡期の車、大衆車等の特徴や構造の変化と当時のモードと重ね合わせて見学してみては如何だろう?

1927年 クライスラー  
1927年レオ・スピードワゴン          
1929年 ポンティアック
1929年 シボレー

   

1929年 オースチン・セブン
1930年 ランチャ・ラムダ
1931年 スツチュードベーカー 
1929年 プリマス・4モデルU      
1932年  マーモン
1935年 アルビヴィス     
スピード トウェンテ
1935年 クライスラー
       デラックス     
1935年 ロールス・ロイス   
1933年  ベントレ

1936年 ドラージュD6-65

 1936年 キャデラック
  コンバーチブル
1936年 シトロエン 7CV

1937年 パッカード・S・8 
      1937年 ダットサン・クーペ       
1938年  トヨタ ABR

②自動車の構造と対応
蒸気、電気、ガソリンの3種類のエンジンの内、結果的にガソリンに軍配が上がった。ボディ形状ではフロント・グラスとサイドとリヤー・グラスと鋼鉄製のルーフを持つクローズド・ボディーが自動車の主流になり、リヤー・トランクもボディと一体となり、スターター・モーターが装着される等、居住性と操作性が格段に向上した。
クローズド・ボディが普及した理由はこの広告のコピーをご覧戴きたい。オーナー・ドリブンでもショーファー・ドリブン何れでもフォーマル・ウエア―で安心して乗車出来る歓びが伝わって来る。

ルノーの”世界初”クローズド・ボディ
(広告)            
Winton sixのクローズド・ボディ(広告) 

               
コーチ・ビィルダー(カロッツェエリア)による自動車ボディの“オート・クチュール”即ち “高級注文ボディ”の動きも一層高まった。
イスパノ・スィーザ、ブガッティ、ドライェ、ドラージュ、ヴォアザン、プジョー・ディナミク、タルボ・ラーゴ、ランシャ・アストゥラ、アルファ・ロメオ、イソッタ・フラスキー二、マイバッハ、ホルヒ、ダイムラー・ベンツ、パッカード、デューセンバーグ、ピアサロウ、コード810等の超高級車は今日、”アール・デコ・オートモビルズ“と称されているのはご存じの処だ。
これらのクルマはオーナーの注文を叶える為にコーチ・ビィルダー(カロッツェエリア)による特注ボディが架装された。フィゴー二・エ・ファラシ、ソーチック、アンリ・シャプロン、トゥーリング、ピニンファリーナ、ギァ、ミュリナー、パークウォード、フィッシャー・ボディ等である。エクステリア・デザインも水滴(ティア・ドロップ)をモチーフとした流線形がフェンダーやルーフの形状に取り込まれ、“速さの美”を表現した。 

1932年 シトロエンC6 カロシェ・SICA L製
(「シトロエンの1世紀」三樹書房より)
 
アール・デコ調の表現 ロールス・ロイス(広告)
1933年パナール・ディナミク(広告)
水滴状のトロッペン・ワーゲン(広告)
1926年 世界記録を樹立したパナール(広告) 

一方、オースチン・セブンやフォードT型の様な低価格で大量に生産された大衆車も定着し始めた。フォードT型は当初は大成功であったが、生産効率を追求した余り快適性やデザイン性を求めるユーザー・ニーズを軽視した為、次第にGMのシボレーからラ・サールに至るフル・ライン戦略によって販売台数トップの座を奪われていった。GMのデザイナー、ハーリーアールはコーチ・ビィルダーの少量生産体制を脱却して高級車を量産・量販する新たなビジネスの成功例となった。
一方、シトロエンもGMの生産方式に学び、革新的な機構(FFレィアウトやサスペンション)を採用して大成功した。
またモータースポーツもル・マン、ミレミリア、ニュルブルクリンク、リビア(トリポリ)、ディトナ・ビーチ、ボンネヴィル等で展開された。
これらの大きな変化はマーケティングの低価格戦略と併せて大局的なデザイン戦略が大きな鍵になっていた史実を物語っている。

③モード
今日では自動車に乗る時の服装は自動車の構造や道中の気象等とは関係なく、その時の気分やドライブ先でのT.P.O.に従って決めている。この様な自由で贅沢な選択は1920年頃から徐々に可能になった。
第一次大戦が終わって好景気になり、自動車は居住性とスペース効率と操作性が改善され、機械類の信頼性も向上し、オーナー・ドリブンの割合が増大した。
悪天候の時でも仕事やレジャーの為に自動車を頻繁に使う機会が増え自動車に乗る服装も進化した。1930年末にデュポン社がナイロンを発明して化学繊維が普及、自動車に乗るファッションも防雨、暴風、防塵の機能的なものから装飾的な傾向を強めて行った。
自動車レースが人気を博する様になると、ゴーグル、キャップ、グローブ、ジャケット、シューズ、ウオッチ等も一般のドライバー層にも大きな関心を呼ぶ処となり、高価なファッション・アイテムになった。

富裕層はご自慢のアール・デコ・オートモビルズを持ち寄ってその美しさを競うコンクール・ド・エレガンスに参加し、社交界に於ける一つのサロンを形成した。コンクール・ド・エレガンスはパリを筆頭にブローニュ、モンテカーロ、ニース、カンヌ等で開かれ、豪華なファッションに身を包んだ紳士淑女の優雅な交流の場が持たれた。
アール・デコの呼称の源となった1925年のパリ万国装飾美術博覧会(アール・デコ展)の「エレガンス館」にはパリ市内のデザイナーのファッション作品が展示された。“モード界の帝王”ポワレはレストランとサロンを架装した豪華客船をセーヌ川に浮かべてドレスの他、アクセサリーや香水や家具、更にアトラクション等も披露した。
一方、新興の米国ではニューヨーク等の成功者がショーファー・ドリブンの高級車にフォーマルな服装で身を任せたり、週末にゴルフ場に家族と出掛ける姿が多くなった。

ショーファー・ドリブンのパッカード(広告 )
アール・デコ調のモードと高級車 1927年 (広告)
アール・デコ調のモードと高級車 1931年(広告)

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて紳士の服装にはあまり大きな変化は見られないが、女性の服装は体を締め付けない活動し易いスタイルになり、スカート丈も短くなり脚元が解放され活動し易い機能的なデザインになった。背景には女性の社会的な進出というセンセーショナルな社会構造の変化があった。
モード産業も自動車産業と同様に機械化や改良が進み、低価格でプレタ・ポルテ(既製服)を扱うデパートなどの新しい流通形態も生まれた。高級志向の注文服オート・クチュールも健在で、プレタ・ポルテとオート・クチュールの2つの商品ラインが存在した。
しかしその後、モード産業は次第にオート・クチュールからプレ多・ポルテにシフトしていった。自動車産業と足並みを揃える如く、国の主要な産業として量産を開始し始めたのである。

女性が自動車を運転するのは極く自然な日常の姿となり、運転に相応しい平凡なデザインの服装になっていった。

オーナー・ドリブンの平凡な服装(作画)
親しみ易いアメリカン・モード(広告) 
和装あり洋装あり。ダットサンに乗る人々(カタログ)
シトロエン夫妻 
 
夫人が着ている服はクチュリエのジャンヌ・パキャンの作品。
夫人はシャネルとも交流があり、娘はシャネルで要職にあった。
夫人はアンドレ・シトロエンの社交の重要なパートナーでもあり、

クルマのデザインに就いても意見を求められていた。
 
(武田 隆著 「シトロエンの1世紀」三樹書房より)

 

[Ⅳ]要 約

・私は自動車産業に携わった関係で、歴史を顧みる際には自動車が人々の生活の3要素である「衣」「食」「住」に付加価値を提供して来た「移」、つまり「ヒト、モノ、カネ、情報の移動」にも注目している。19世紀末から20世紀に掛けて効率の良い新しい動力である内燃機関が実用化された為、暮らしの為の物財の移動は広範囲に微細に多頻度になり、自動車で移動する愉しさも加わった。

・「移」の拡大は西欧の多くの都市経済を発展させ、貴族階級に替って資本家階級や知識階級の豊かな生活が始まり、次第に中産階級も豊かになった。自動車界ではカロッツェリア製造からマス・プロダクションへ、モード界ではオート・クチュールからプレタ・ポルテへ変った。

・大衆化が進んだ背景の一つには、人々の生活に於けるデザイン感覚に相応しい「移(自動車)」と「衣(モード)」を求めたからであろう。
否、「移(自動車)」と「衣(モード)」が平準化し普及したからこそ、中産階級という新しい階層が生まれたとも言えよう。
米国には「貴族階級」と言う階層は無いが、成功すれば誰でも上流階級になれたから中産階級向けの量産車や既成ファッションがいち早く上流階級にも広がった。因みに1940年代に既製服「アメリカン・ルック」を生み出したクレア・マッカーデルのベビー・ドール・ドレス(ルーズ・シルエットの黒のハイ・ウエスト・ドレス)はその代表作だ。米国の大衆はフランチャイズ・システムのカー・デーラーでGMの車を、アメリカ初のデパート「メ―シーズ」でブルックス・ブラザースの既製服を購入し、「アメリカン・トラッド」と称される大衆文化を育てたのだった。

・自動車産業とモード産業は多くの人々が生産者であると同時に消費者でもある。両産業とも「新技術」、「新素材」、「量産」を活かし、ほぼ同時期に近代化への歩調を合わせて発展しつつ、先進文化をリードして来た実績はとても尊いと思う。

                                                                     -了-

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