話すのは苦手でね 7 

板金職 鈴木公一氏の話

第7回 インタビュー:三重宗久

最後の1台

鈴木氏の記憶に残る車の最後のものは、正式な名前が無い。プロトタイプとして作られたものでもない。もちろん、会社の商品計画にも入っていなかった。それが、一応の形になった時に雑誌がスクープ、当事者たちの意図とは別の形で世の中に知られることになって、すこぶる具合の悪いことになってきた。従って、もうそれから10年以上を過ぎているにもかかわらず、まだその詳細を語る時期は来ていない。ここでは鈴木さんの思い出から、その姿をおぼろげに想像していただくことにしよう。

板金の総合教育としての1台…オープンカーを作ろう!

 僕が実験に来てからですけどね、そこでは実務のかたわら鈑金の指導をしていたでしょ、のべで90名ぐらい。それで実験の田中さんが、ドライバー教育にオープンカーを使いたいんだけど、それだけじゃあ意味がない、板金の総合教育という形で車を1台作ってみないかって話が出てきたわけ。

 なぜオープンカーかっていうと、テストコース全体を見渡せるタワーがあるんですよ。その上からだと、屋根のないオープンカーならドライバーのハンドル操作が確認できるっっていうんですね。

 それはもうジェミニがなくなる頃で、そのあといすゞには乗用車の計画がなかったんですね。それでドライバー教育をやる車がない、それでジェミニを使って何か作ろうと考えたんだろうと思いますね。僕にはその出発点のことはよくわかりませんけど。で、それをリアエンジンにするっていったのが田中さんだったのか、あるいは若い連中がそう言いだしたのか、それもわかりません。とにかく、リアエンジンでやりたいって言ってきたわけ。

いすゞジェミニ

 で、僕は鈑金教育の一環として、その仕事を受けたわけですけど、人選はまかしてください、って言って、実験部に何班かあった中から12人選んだんですよ。それで毎週金曜日、4名1チームでやりましょう、と。その3班、12名にハンドワーカー・チーム、ハンワカ・チームっていう名前をつけてね、各班にリーダーを決めて、1班づつ交替で作業を進めるようにしてね。だけどみんな通常の業務があるわけだから、自分の部署から金曜日だけ抜け出してくるっていうのはやりにくいでしょう。だから本来の仕事に追われて、来られない人が多かったんですよ。それで日程はずいぶん遅れましたね。

 リアエンジンにするにしても、ドライバーの安全を考えなきゃいけないから、まずエンジンをのせる枠を考えてくれ、ボディのアンダーパネルの一部分は切ってもいいけど、骨(クロスメンバーにあたる部分)は切るな、と。剛性が落ちますからね。それでまずエンジンをのせる枠を作ったわけ。それが出来上がるのに4、5か月かかった。こっちがじれちゃったぐらいだったなあ。ボディにとりかかるどころじゃない。

 ようやくエンジンが収まって、とりあえずシャシープロトの形ができたんで、安全性の確認のためにその状態で走行テストを繰り返したんですね。それでようやくボディにとりかかれるようになった。ジェミニの4ドアを持って来てね、白と黄のガムテープを貼って、こういう形になるんだよって説明したの。部分によっては段ボールでふくらましたり。そうしたら、デザインの人が、じゃあっていうんでやってくれることになったの。ところが、出来てきたのが素晴らしいデザインだったんで、とてもそのとおりにはできない。予定通りの期日に完成させないといけないわけだからね。それでデザインの方の案を参考にして、いいとこどりをやったわけ。そしたら、トヨタのMR2の第二世代と同じ感じになったよね。うちの方が先だったんだけどね。

 だけどこの車は実験部だけで作るんだから、部品を買うことなんかできない。もらったのはビークロスのメンタマだけでしょう。でもそのヘッドランプの位置を出すのに、まず苦労した。それにエンジンフードとフェンダーの方にも面を合わせないといけないんだからね。

ビークロス

 この時にスケールを使ったわけ。サルジョットさんたちに教わったことのひとつですよ。1メートルのスケール(定規)を当てていくと、滑らかな面に見えてもふくらんでいるとことか、逆にへこんでいるところがよくわかる。

 で、いよいよボディを始めることになって、僕が半分やるから、残りの半分は僕の作り方を見たうえで、好きなようにたたけ、といってハンワカの人達にやらせたわけです。最後は僕が直しながら、そのポイントのところは彼らの前でやってみせるようにした。

 このホワイトボディをやってるうちに、実験で面白いことやってるっていうんで、その当時提携していたGMのデザイナーなんかも見に来てね。その中にタイからいすゞに来ていたサラン君という若いデザイナーがいたんですよ。彼はね、5ミリぐらいの細いテープをさーっと引いていくんですよ。そうすると線のきれいさがよくわかるんですね。

 ドアのアウターパネルは後ろへ延ばしてあります。ベースが4ドアだったんで、短いんでね。ただ、インナーはそのままだから、ドアハンドルはもともとの位置にあるんで、ちょっと変なんですけどね。そのドアの中ほどから後方にかけて、すこしへこませて、ルーバーを設けてエンジンへの冷却気の通路にしてあります。そのルーバー作りも大変だったんですけどね。

 この車で失敗したのはね、ロールバーを作ってあるでしょ。最初フロントウインドーとロールバーを結んだの、2本のバーで。その方が剛性が上ると思って。ところが走らせてみると、フロントウインドーにひびが入っちゃった。ウインドーの付け根のあたりが歪んだんでしょうね。それで2本のバーははずしちゃった。どうやら、フロントウインドーの付け根のあたりを丈夫にしないといけなかったみたいですね。

 それでこの車ができた時に、塗装はどうしようかってことになったの。前のモーガンの時はデザインの方で塗ってくれたんだけど、二度は頼みにくいしねえ。そしたら、外部の工場で塗ることになったんだけど、その塗装中にスクープされてね。その雑誌に、いすゞ、スポーツカーに復帰か、なんてあることないこと書かれてねえ、それ以来オレは記者は信用できないんだ。だって迷惑したもん。この車は実験部だけで作ってたから、スクープが出ても社内では車のことを知らない人がほとんどだった。だから他の部署から、あれは一体なんだっていうようなことをずいぶん言われたんじゃない、実験の人はみんな。その協力工場にも相当迷惑かけたようだしね。

 色はオレンジ、ベレットにあった色だって言ってましたね。塗装が終った時に実験部内で試乗会をやったんです。一応それで完成ということで。でも、そのあとはあんまり動かしてるの見なかったなあ。

クゥオーターアウター?(ビークロスで)

 この後でもう何台か、手伝った車があるんです。そのひとつがビークロス、それを1台だけ作ることになった。その時に、外注に出すことも考えられるけど、その場合は図面を全部起こして、木型を作ってという手順を踏むから、フェンダー1枚×××万円だと。その場合は何枚も作れるわけだけど、これは1台だけでいいんですからね。

 それで鈴木さん、クオーターアウターをやってくれないかっていう依頼があった。あとんなってそこは他へ出すから、鈴木さんはフロントまわりをって。フロントまわりっていうのは、エンジンフードのアウターとインナー、それから左右のフロント・フェンダーですね。それならガバリ方式でやろうかって。地図の等高線、あの線図を縦にとっていくのがガバリ方式なんですよ。

 要するに細かい製作図面が無くても、板金職のほうでいくつかのポイントをおさえて、それはカーブのきついところは細かく、ゆるい部分では大きな幅でとっていく。省けるところは省くわけです。そうした方が時間が節約できますからね。本来のやり方だと、ちゃんとした図面がないと木型もできない、プラスチック型もできない。だけどガバリ方式だと、その木型やプラスチック型の必要はないから、時間と費用が節約できるし、設計と並行して進めていけるんですね。板金の方をやりながら、設計の方に指示もできる。自由度が高いんですね。小回りが利くっていう言い方もできるかもしれませんね。

 ただ、エンジンフードの先端のところはアールが小さくなってるでしょ。そういうところは図面では出し切れないんですよ。どんなカーブなのか。それで、あとで日産に行った中村さんがまだいすゞにいた時だから、中村さん、ここわかんねえよって言ったら、鈴木さん、そのパネル持って来てくれよって。わかりましたって言って、パネルをデザイン部に持ってくと、ここはそれでいい、ここはもう少しこうして、とか、形状をふたりで確認しながらたたきだした。そういうことができたんですね。

 ただ、段々やっていくと、僕の方も日程が詰まって来てね。ビークロスのエンジンフードは真ん中がへこんでますよね、両側が盛り上がって。それをこれからたたいていくのは大変だなあって思ってね。それでビッグホーンのルーフをもらってきて、ゲージを当てて確認しながら使える部分を使った。多少はハンマーをいれましたけどね。

 それにビークロスは後ろのウインドーを30ミリ下げているんですよ。ある時急にビークロスのリアゲートの下部を持って来て、後方視界が悪いので改造してほしいっていう依頼があったんですよ。それでガバリを立てて改造を行った。窓を下げて、スペアタイアのカバーもその分下げて、そうするとカバーがバンパーにあたるようになるんで、その部分を少しえぐるように低くしてね。そうすると乗り降りにも具合がいい。こういう作業を全部木型から何から作り直してやっていったら、何日もかかるわけですからね。

 それで自分一人で、指示されたパネル(エンジンフードのアウターとインナー、左右のフロントフェンダー)は予定通りの2か月で、ジャスト・イン・タイムで仕上げました。これも会社の仕事では重要なことですよね。

 僕は50歳の時に試作から実験へ移ったんですね。その頃はいろいろ考えましたけど、結果的にはプラスだと思っているんですよ。あとで実験にいる時に、通常の試作ともプロトタイプの作り方とも違うやりかたでモーガンとジェミニ・ベースのオープンカーを作ることができたわけですから。どちらの車も図面なんかないわけです。すべて現物合わせで作らないといけない。

 ガバリ方式を身につけていたからこそ、そういうことができたんだと思うんですよ。板金屋のひとりとして、こういう仕事のやり方もできるんだ、ということは言っておきたいですね。

今までを振り返ってみると

 最近になってね、オレのやってきたことも間違ってなかったのかもしれないな、と思うようになってね。最初は親父が船大工だったから、これからは鉄の船の時代だって言っていたんですね。親父は時代の変化を身にしみて感じていたんでしょうね。それで中学校を卒業した時に、腕に技術をつけようと思って京成自動車へ入って板金を始めたわけです。いや、それまで板金なんて考えたこともなかった。親父の言葉から、鉄を扱うのがいいだろうと思っただけで。

 そこに4年いて、もう少し大きい会社へ行きたいなあって思って、いすゞへ移りました。そこではスポット溶接の仕事から始まって、しばらくして試作へ移って、そこでサルジョットさんたちの指導を受けることができたんですね。

 50になって実験へ行ってからはモーガンとオープンカーを作ることができましたしね。もうどっちも処分されたそうですけど、私の仕事として残しておきたかったですね。

 いや、定年で会社を辞めた時には、独立して板金の仕事をしようとは思わなかったですね。正直な話、あー、これでもう板金やらなくていいんだ、と思った。自分なりに苦労してきましたからね。で、変な話だけど、定年になったら胃下垂が直って、52キロをずっと維持してきた体重が増えてきた。昔の会社の人に会うと、いつも太ったって言われるんですよ。

 でもね、60歳を越えた頃から、家に早く帰って来ちゃうんで、やることがない。もうその時にはいすゞは乗用車は作ってなかったから、それを板金で作ってみようかって気になってね。最初は鉄板で作ろうかと思ったんだけど、うちに道具がないから絞ることができない。それで銅版を使って作るようになったんですね。1年1作が目標です。その製作方法とか、パネルの分割にも、サルジョットさんたちから教えていただいたことが役に立っているわけです。

やはり板金やって来てよかったなあ、と。(終)

     

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