自動車史 キュレーター 清水榮一
日本特有の自動車発展史 7
第6章 グローバル化の中で、21世紀初頭に激変した産業構造と自動車産業
1節 日本企業の成長要因とパラダイム・シフト
日本の企業は20世紀末まで次の4つの特色を生かしつつ目覚ましい成長を遂げた。
①関係会社グループの形成 ②長期の取引 ③業界団体の形成 ④政府の産業政策指導
その後、21世紀に入り少子高齢化の顕在化、雇用形態の不安定化、格差の拡大、企業倫理の欠如、商品の安全性等が露呈し、一方、世界ではベルリンの壁が崩壊して国際間の経済情勢が大きく変わり、中国の工業化が本格化し、モノづくり技術はIT技術が中心になり、地球温暖化による気候変動、食料不足、資源不足、金融危機等も顕在化した。
これら国内外の変化を受けつつ自動車産業もグローバル化に向けて新たなパラダイムにシフトが始まった。それは内燃機関から電気モーターになるとか自動運転になる等のハード面の変容もさることながら、自動車産業の経営戦略上は次の対応が基本かつ急務ではないだろうか。
①自動車先進国に於ける所有形態の大変化への対応
②新興国で急拡大する商用車と大衆車を中心とした需要への対応
第2節 官の政策転換
我が国の舵取りの思想と指導も大きく変わった。通産省の場合、①戦後15年間は重要産業の合理化、未成熟産業の育成、秩序ある輸出拡大、外貨制約下での輸入管理等を、②1960年代には貿易と資本の自由化に対処する国際的な経済システムを、③1970年代には世界経済への仲間入りを目指した知識集約型産業構造への転換を、④1980年代には総合エネルギー政策を筆頭に民間企業では投資を期待出来ない大規模な研究開発の投資に重点を置き、通商貿易政策は多国間で合意出来る国際ルールに則った問題解決を、⑤1990年代には長期不況を克服する為の経済構造改革に取組み、政策手段や政府の関与に就いては従来とは異なる民間企業の創意と市場の調整機能に委ねる事になった。
因みに通産省で多大の実績を遺した官僚の一人は曰く、「日本人、日本企業、日本政府に共通していることは、国際社会から“テイク”することに関心が強過ぎて“ギブ”することへの熱意が不足している。換言すれば利己主義過大、利他主義過小シンドロームと名付けることが出来よう」と歯に衣を着せない。
2001年の省庁再編で通産省は組織変更を行い経済産業省となり、市場経済システムの信頼と企業の自主性を尊重する路線を執り、自動車企業も海外へ転じ始め、現地生産から次第に現地開発に重点を移し、世界の自動車産業は完全にグローバルな金融秩序と信用秩序に組み込まれて行くと同時に、従来の先進国市場に於ける競争から発展途上国市場に舞台が変わった。
第3節 自動車メーカーの主な動き
2002年 トヨタとホンダが燃料電池自動車の販売を開始
2006年 三菱、研究車(iMiEV)で電力会社と共同研究開始を発表
2008年 インドのタタ・モーターズが低価格車「ナノ」を発売
2009年 米ジェネラルモーターズ経営破綻(国有化)、 フィアットがクライスラーと業務提携
2009年 トヨタ・プリウス、ホンダ・インサイト等のハイブリッド車が本格的に市場に浸透開始
2010年 日産・リーフ発売、新興国の自動車販売台数が先進諸国を上回る
2011年 中国が3年連続で世界販売台数一位へ
2014年 軽自動車が2年連続で過去最高を更新(構成比約4割)
日本のメーカーは80年代の貿易摩擦以降、海外に工場を建設して生産システムを根付かせサプライヤーとの協力関係も確立して部品の現地調達率を高め、更に現地開発も進めて行った。一方で同時にグローバルな競争も活発になり、現地化と連携した活動による相乗効果も拡大した。この過程で日本のメーカーは欧米のメーカーより持ち前の迅速で緻密な活動が奏功した。
2008年のリーマン・ショック時に米国メーカーの短期的な経営姿勢、商品戦略のミス・マッチ、開発・生産体制の軽視等による経営危機が露呈したが、本質的には極めて人口の多い中国、インド、東南アジア諸国が本格的に自動車産業に参入して来た事に因るものであり、これまで20世紀に自動車先進国が歩んで来たクルマ社会や自動車産業とは大きく異なる新しい世界に転換し始めたと言えよう。
グローバル化の過程で企業間の提携が促進されるが、最も重要な点は両企業の得意な開発分野と強い販売市場に於けるシナジー効果を高める為に相互の企業文化を尊重しなければならない。
2010年以降、北米では燃費の良い中小型のSUVと乗用車が主流になり、欧州ではディーゼル・エンジンの存在に加えて中小型乗用車からSUVへの移行も見られ、アジアでは廉価な小型車のインド、小型ピックアップのタイとインドネシア、中型乗用車から徐々に小型車が増える中国。市場は頭打ちだが軽自動車が増えSUV化も進む日本に、世界の市場はそれぞれ変わりつつある。これらの変化を通じて明確に言える事は「電子・通信産業や素材と加工技術に基づく環境対応商品、そして自動車先進国では新しい自動車の運転と保有形態(例:シェアリング、自動運転)に対応する事が注目され、従来の様なアッセンブラー企業よりも独自の技術を持つサプライヤーがイニシアティブを握る動きになるであろう。
第4節 五十嵐平達氏の功績
関東大震災の復興期にバスとトラックが大きな役割を果たしたのを機に米国フォードとGMが日本でノックダウンを開始したのは広く周知の処だが、五十嵐氏は震災の翌年の1924年に会津若松に生まれた。
16歳で運転免許を取得、世界第二次大戦の直前の1940年にヂィーゼル工業(現いすゞ)を経て、日産のボディ製作工場のワイド・フィールド・モーター(旧オオタ自動車)に移籍、戦後5年目の1949年にはフリーランスの自動車ジャーナリストとして活躍される傍ら、1954年から開催全日本自動車ショーの展示企画を始め、自動車書籍を発行して自動車デザイン論、歴史解説、自動車文化論、試乗レポート等を広く世に問われた。また日産自動車広報部の嘱託としてニッサン80系大型宣伝カーのデザインやカタログの編集も指導され、日本のモータリゼーションの発展に大変尽力された。
氏は自動車工学研究者、自動車史研究家、自動車評論家、工業デザイナーと極めて広範囲にわたる分野の専門家で氏の信条は「歴史に忠実に」であり、兎角、乗用車中心になり易い自動車の歴史を商用車の観点からも広い視野から論ぜられた。日本は戦前、1920年代以降、第二次大戦復興終了までの約40年間、商用車が人々の日々の暮らしと軍事と経済発展に如何に貢献して来たか・・・・・その過程は地味ではあるが、着実に日本の自動車産業の礎を築いた。それは商品開発や製造技術の進展のみならず国策支援を促して日本の驚異的な経済発展を齎す礎も築いたのである。
氏は何よりも熱心な自動車趣味人でもあった。日本に於ける愛好家クラブの名門、CCCJ(日本クラシック・カー・クラブ)に所属され、濱徳太郎先生、片山豊翁、小林彰太郎氏、片岡秀之氏、木村治夫氏と共に自動車史の研鑽活動、催物の企画、レストアー作業の監修などに惜しみなく貴重な知見を提供された。
氏の武蔵野市のご自宅には貴重な数多くの国内外の自動車書籍、写真集、カタログ、ミニチュア・モデルがギッシリ所狭しと保管されていた。ある時、「これでは床が抜けますよ」と冗談を申し上げた処、「そうなんだよ、だから引っ越そうと思うんだ」と。果せるかな、数年後に武蔵村山に転居され、晩年はトヨタ博物館設立に伴うコレクション体系づくり、展示車両の選択、レストアーの指導、図書室やバックヤードの設営や学芸員の指導等に多くの実績を遺された。日本の自動車史の屋台骨を築かれたと言っても過言ではない。
第5節 私の日記から
①片山翁のクルマ人生
私は、常々「自動車メーカーはもっと自動車の歴史を訴求するべき」と考えていたので、宣伝部在籍中にモーターショーの企画・運営を担当する傍ら、記念車の蒐集も心掛けた。販売会社出向の時にも地元に残る旧車を購入したり自分の愛車を記念庫に寄贈したりして来た。
50歳の節目に “この会社でクルマ文化を発信しよう”とモータースポーツ会社へ移籍を願い出た。期待した通り2002年7月、Zカーのリバイバルは絶好の機会となった。Zカー用の高性能コンポーネンツの北米販売を強化する名目で片山豊翁に相談役をお願いした処、即刻、快諾を戴いた。尊敬する片山翁の謦咳に接する日々が叶い自動車産業史を始め自動車文化のあらゆる事を教えて戴き、愛好家クラブへの情報発信などの意義深く愉しい日々を過ごす事になった。
片山翁のご尊父・麻生誠之翁は福沢諭吉翁と交流があり進歩的な思想の持ち主で、福沢先生と東京で頻繁に逢って居られた。自転車が珍しかった20世紀初頭、埼玉の自宅までの帰途に銀座で自転車を購入された逸話が伝えられているが、この様な家系に育まれた片山翁が“自動車という文明の利器”の虜になったのはむしろ当然であったろう。
片山翁は「自動車を造ろう」と志して日産に入社、多摩川スピードウエイに出場するダットサン・チームに加わり(1936年)、戦後、フライング・フェザーの開発に参画(1950年)、その後、“自分はクルマ造りよりも販売戦略の企画や愛好家との交流の方が適している”と奮発し日本初のスポーツカー・クラブ・SCCJを結成(1952年)、自動車業界に働き掛けて全日本自動車ショーを立ち上げ(1954年)、オーストラリアでの世界一過酷なラリー参戦を企画し監督として活躍(1958年)等々、日本のモータリゼーション発展期に多くの新しい自動車文化を創り広めた。50歳の頃に米国日産を創立(1960年)、“アフター・サービス体制こそ販売の要”との信念で部品供給網の拡充と修理技術の向上を徹底(1963年)、オイル・ショックを味方に着けて小型車を拡販(1970年代)、そして米国自動車殿堂に推挙された(1998年)。
“Love Cars, Love People, Love Life”が翁の人生訓であり、大所高所からの歴史感と人生観を持たれていた。2016年の初春に105歳で天に召されたが、今尚、氏の功績は燦然と輝いている。
②アーカイブス・キュレーターの心掛け
“愛好家の心遣いは本当に有難い”と私は何度思ったことか・・・。「お爺ちゃんの形見の車を提供します」、「下取りに出すのは忍びないので寄贈したい」と、1960年頃以降、多くの日産車ファンから総計約130台ものご寄贈戴き、心ある先輩や現役生が歴代の主な車種約200台を蒐集、10余年前から我々ОB有志も解説を手伝う事になり、日産座間ヘリテージ・コレクションが本格的に立ち上がった。お陰様で日本の愛好家やメディアに加えて最近は海外の見学者が急増している。
今後の活動面では解説の内容を次の3点を充実していきたい。
(1)展示車両(ハード)の背景に脈々と存在した市場の動きや競争相手の戦略や開発・生産・販売・アフター・マーケット等に関わった多くの人々(メーカー、サプライヤー、販売店、の葛藤と功績(ソフト)の功績を可能な限り正確に伝承する。
(2)歴史は自然科学ではないので実証が困難なので、少しでも客観性を高める為に個々の史実のみならず経済、政治、社会、外交等日々の生活を通じた大河の流れも研鑽して伝承する。
(3)今後、自動車産業が最も社会貢献する発展途上国に日本の自動車産業史を提供する。
かのJohn F. Kennedyのフランクフルトでの演説・・・“CHANGE is the Law of Life. And those who look only to the past or the present are certain to miss the future.” は大変示唆に富むが、同時に私は思う・・・「歴史は暦を意識して動いている訳ではないが、人間の知力は限りなく偉大な歴史文化を創造していくから、我々は樹だけではなく森も観つつ将来の行方を計ろう」と。
因みに1960年代から約20余年間に渡って日本国内の市場で展開された熾烈な自動車販売競争を解説する場合、競合商品の比較だけでは単に商品の優劣や個人的な好き嫌いの域に留まってしまう。販売競争の主人公たる各企業の経営戦略や組織や企業風土にも言及することによって人間社会と企業の営み等の全体像が見えて来る。例えば、欧米の自動車販売史から次の様な「大河の流れ」に気付く。
①「GMの経営者は販売による付加価値の重要性を熟知していた」・・・・・フォードの量産戦術に対して、GMはマーケティングとマーチャンダィジンング戦略で勝利した。
②「VWは販売戦略のオーソリティが適切な時期に適切な海外市場への進出の必要性を認識していた」・・・・・戦後10年目、VWは北米輸出でアフター・マーケットを重視して大成功を修めた。
③「欧米の販売競争は販売促進力、商品開発力、財務力、そして本質的には企業の組織力で勝負が決まった」・・・・・「戦略」は「戦術」では補えず、「戦術」は「戦闘」では補えない。
平たく言えば、キュレーターが販売競争の歴史を見学者に解説する場合には「販売競争の経緯、成果」と同時に「販売競争の勝敗を決めた本質的な要因」に就いても自分の知識を整理しておく」事が肝要だろう。但し、実際の現場で見学者がその様な解説を希望しない場合もあるので、無理強いしない事が大前提であるが。