話すのは苦手でね 6 

板金職 鈴木公一氏の話

第6回 インタビュー:三重宗久

印象に残る4台

鈴木公一氏は中学卒業以来、京成自動車、いすゞ自動車と都合44年にわたって板金をその職としてきた。そのうちの40年間はいすゞに在職、最初の2年ほどは生産ラインでのスポット溶接についたが、その後は試作部の拡充に伴って、京成自動車でのバス車体製作の経験を買われて、試作鈑金で腕をふるった。その試作部には約30年、その後実験部に10年在籍、いずれの部署でも板金で試作車(生産のための車)およびプロト車(正式な図面なしで作る提案型の車)をまとめあげた。その中で特に印象に残る車が4台あるという。

エルフプロト車

 その最初の車は1984年から85年にかけて製作したエルフ・プロト車である。

 当時、試作部内で特許を出そうじゃないかっていう話が出たんですよ。特許委員会ってのを作りましてね、僕も現場のまとめ役ってことでその委員会へ出たわけ。そこでいろいろアイディアが出てきた。その中に、狭い道路に配送車が入った時に、乗ってた人がドアを開けて下りたりすると、ふさいじゃうよな、じゃあどっから下りる?、前から下りてもいいんじゃないかって発想が出たわけですよ。

 誰もやったことがないわけだから、出来ないだろうってことがいっぱいあったんですよ。たとえば、前を開けるようにしたら、インパネはどうするとか、フロントのガラスを切るのかどうか、とか、Aポストは細いけど、それでもつだろうか、とかね。でも、とにかくやってみよう、と。

 確かその時は廃車になったキャブをもらって来たんですよ。実験部の方には廃車にする車がありましたからね。それで運転席の左側の半分をフロントウインドーと一緒に開くようにしたんですよ。ヘッドランプのあたりはそのまま残してね。インパネはグローブボックスのとこで切っちゃって、そのグローブボックスは別のところに置こうと考えていた。

 だけど前から出入りすると、床が高いんで、上るのが大変。それで我が試作部の石川さんが、正面のドアを開けると階段状にステップがおりてくるような機構を考えたんですね。それは特許をとったひとつなんです。

 それと、オーケー・ドアもつけて。オーケー・ドアっていうのは、大型では流行ってたんですよ。左側の下が見えるようにガラスを入れてあるドアです。で、まだ小型トラックではやってなかったんで、確か大型車用のガラスをもらってきて、それをエルフのドアに組み込んでね。ただ、ドアウインドーのレギュレーターをどうしたかは、わからない。

ドアの形状 ドライバーから見て左ドア下と左の前方した(直近の)の視界不良
この試みが今につながり、現在は左下の視界が改善(当たり前のの様に)歩行者にやさしい車に!

 その前開きドアとオーケー・ドアをつけた車を、いすゞの技術の祭典とか言ったものに出したんですよ。その時に部長から、公さん、説明員として行ってくれって言われて、説明員をやりました。生産はされなかったけど、当時エルフのキャブを作っていたいすゞ関連会社の人が見に来てて、これは本当はうちの方でやらなきゃいけない車だったって。それに、良くできてますよって言われたのが記憶に残ってますね。

アスカ・ディーゼル・ターボ の試作・・・速度記録への挑戦

 もう1台、試作部時代に手がけたのが、アスカ・ディーゼル・ターボである。ただしこれは試作車ではなく、ディーゼル乗用車としての速度記録に挑戦するための車であった。その車の製作は他の部署で始まり、途中から板金の仕事が鈴木さんのところに持ち込まれたらしい。最初はプロトタイプ1台が作られ、それを元に記録挑戦車、チャレンジカーが2台(1時間走行用と24時間走行用)製作された。

 その頃僕は班長やってたんですよ。それである人が実験で面白いことやってるから見に行かないかって。それで見に行ったら、アスカの空力を良くするために、発砲スチロールを削ったのをガムテープでとめてあった。その時に、公さん、これ何とかならねえかって話が出たんですよ。だけど僕の方も通常の業務でめいっぱいだったんで、夏休みの2日か3日間使えば何とかなるかなって。それがスピード・チャレンジカーで、最初は実験部が技術向上、教育の目的で始めたみたいですね。

 それは最初のプロトタイプですね。実際に走った1号車と2号車はデザインされた形をしてますよね。でもプロトタイプの方はそんなんじゃなくて、もっと雑なんですよ。ピラーのところなんかも、発砲スチロールで作って、それをガムテープでとめたりしてね。そういうところを鉄板で作っていった記憶、ありますね。このプロトタイプの後で、屋根を50ミリ下げるということが出てきたんですよ。だけど時間がなかったから、プロトタイプではそれはやってないと思う。どうしたって屋根を下げるとガラスを注文しないといけないでしょ。

 僕は走るのは見ていないんですけど、結果は良かったらしいんですよ。それから2台の車を作ろうって話が出てきて、その頃になると会社全体が手を出してきたんですよ。エンジンとかデザインも。ロゴなんかをデザインしたのは斉藤欣一さんだそうですね。それで1号車、2号車は屋根を下げました。その時には屋根の木型を作って、カーブを合わせて屋根を作りました。1台だけなら木型無しでもできますけどね、2台作ることになっていましたから。

 ボディの赤いラインから下はFRPです。取付けるのは木型の人達がやってる。彼らはFRPやってましたから。ただ、そのためのブラケットなんかは僕が作りましたけどね。

 ボディのアンダーカバーも僕らが作ったんです。アルミでね。これは勉強のためにその頃のポルシェのレーシングカー(956)を見せていただいた時に、ボディ下側の空気をうまく流すためにアルミでアンダーカバーを作って、フラットにしなさい、と教えてもらってね。そこで試作で僕が主導して作った。他の人はまだアルミには慣れていなかったからね。

 それで本番の挑戦の前にいすゞの藤沢のテストコースでテストがあったんですよ。そん時は僕も行った。そしたら、実験部のドライバーの一人で藤原さんていうのが、走っていると前から音がするって。ホイールアーチのインナーライナーは元は角ばっていたんですよ。そこで空気が巻いちゃうらしい。それで藤沢のテストコース脇に座り込んで、インナーライナーを叩いたんです。走行を繰り返してはたたき直し、これでよしというまでやった。タイアとの隙間がなるべく少くなった方がいい結果が出たんですね。

 でも本番の日には僕は行かなかった。行ったのは鈑金からと組立てから若い人がひとりづつ、でも夜中もよく寝られなかったって言ってたな。いつ起こされるかわかんないから。でも、つくづく試作っていうのは縁の下の力持ちだって思ったなあ。谷田部の本番には立ち会えなかったんだから。

 国際速度記録への挑戦は1983年の10月、21日から22日にかけて茨城県谷田部の高速テストコースを借り切って行われた。用意された車は1時間記録用と24時間記録用の2台、ドライバーを務めたのは津々見友彦氏ほか3名。結果は1時間平均が214.18、24時間が205.35キロ/時で、いずれもディーゼル乗用車としての新記録であった。車はその年のモーターショーに出品されていすゞの持つ技術力の高さを示したが、後の時代になって廃棄されたらしく、現存していない。

勇気と自信が、男をトライさせる。

車は、誕生以来らりーやレースで自らを鍛えてきた。それはまた、宿命でもある。自らのテクノロジーの優位性を、世に堂々と誇示し、自らを超えてこそ、車は進化するものである。そこにはエンジニアたちの血のにじむような研鑽と、そして僕らの想像を超えた大きなロマンがあるに違いない。ISUZUも例外ではない。アスカのインタークーラー装着ディーゼルターボ車は、これまでのディーゼル車のイメージを一気に払拭することだけをテーマに開発された車である。だから、どうしても公の場でそれを示さなければならないのである。しかもこれは先進のもののみに許された、一つの恍惚でもある。僕らもクルマも、トライをやめた日から進歩しなくなる。いま、ISUZUは、アスカのインタークーラー装着ディーゼルターボ車で国際記録に挑戦する。    ( 当時の記事より )

     

若い世代の技術の向上に・・モーガンを作ろう

 試作部の後でね、少しだけ安全部門の部品管理のような部署に移ったことがあってね、その頃の職制たちの旅行の時に、鈴木さん、慣れねえ仕事やってるそうだね、そのうち実験に来ねえかって話が出たの。で、現場での仕事に戻ることにして、実験に引っ張ってもらったら、実験部の連中っていうのは昔レースやってた人達だから、侍が多かった。肝が据わってましたね。

 その実験部の中に班長をやっていた佐野さんていう方がいたんですよ。その人も僕を実験に誘ってくれたひとりなんです。その佐野さんが、若い人の仕事を見ていると、それぞれ人がやっている溶接なら溶接はできるけれども、それ以外の応用が利かない。それで若い人たちの技術の向上を図りたい、と。

 そこで、そこにあったピックアップトラック、廃車になったやつですけどね、それを使って汎用車を作ろうじゃないかって。たまたまそれは左ハンドルだったんですけどね。それでモーガンを作ろうって。いや、佐野さん自身がモーガンが好きで、写真なんかをいっぱい持っていたんですよ。それを持って来て、「鈴木さん、モーガン、作らねえか」って。

 それでまずウインドーを作ろうっていうんで、ピックアップのリアウインドーを持って来て、それに枠をつけた。いや、結構簡単なんですよ。L字のチャンネルがあるでしょ、それを二つ組み合わせれば枠ができる。カーブのところは絞っていけばいいわけだから。そのかわり、もうガラスの取り外しはできないんですけどね。

 それでウインドーができたら、じゃあ本格的にやろうってことになってね。オレが右側を作るから、それを見てみんなで左側を作る、と。まずシャシーを低くして、本当はそれを定盤の上に置きたいけど、本来の仕事じゃあないから、恐れ多くてそんなことはできない。それで工場の床のコンクリのなるべく平らなところを選んで、そこにシャシーを置いて、ホイールセンターを4か所位置決めしてね。それでセンターが決まった、と。そのあとでホイールをはずして、かわりに厚めのベニヤ板をとりつけちゃう。そうすると基準になるわけでしょ。

 図面も何にもないから、写真を見ながら鉄板でボディやフェンダーを作っていったんですよ。それで最初は僕が右側を作って、反対側は他の人がやる予定だった。でも結局反対側はほかの人がやったのを、その都度僕が修正しながら仕上げていったんですね。だって実験部の人達はパネルを製作した経験はなかったんだから、無理もないですよね。

 このモーガンは部品を買うってことはできなかった。それでバンパーはあんまり合っていないでしょ。これ、大型トラックのサイドガードなんですよ、やっぱり廃車からとってきた部品でね。だから曲がり具合があんまりよくないんです。ヘッドランプはどこから持ってきたんだったかなあ、やっぱり大型トラックのランプだと思いますね。

 で、このモーガンは連絡車に使っていました。なんたって実験部の事務棟から開発管理部までは歩いたら15分ぐらいかかるんですよ。だからこの連絡車で。そうしたら他の部署から苦情が来てね。実験の連中はシートベルトもないオープンカーで走り回っているって。そのうち使えなくなっちゃった。

 でもこのモーガンはね、完成した時に、なにかエンブレムがあった方がいいなあって思ってね。117クーペは狛犬だから、これには平等院鳳凰堂の鳳凰をつけようって。写真から絵を描いて、それを銅版にけがいて、たたきだして。それは家で作業をやったんですね。仕事を終わってから、家の座卓の上で、少しづつ音がしないようにたたいたりね。向かい合った二つで一組になってるわけです。平等院のは、たがいに外を向いてるんですけど、これは向かい合って作っています。

続く

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