「日本特有の自動車発展史」3

             「日本特有の自動車発展史」 3         

                   自動車史キュレータ  清水榮一

第2章 国家総力戦のよう、世界第2次大戦と自動車産業

第1節 過当競争を排して経営資源を集約化

 戦前の日本経済は国産品振興運動と金輸出再禁止(1931年)に向けて、円安と低金利政策の効果を得て徐々に成長し、重要産業を国家で後押しする体制が確立していった。重化学工業が全製造業の生産額に占める割合は1931年の34%から1936年には50%に上昇。従業員数も23%から38%に増えた。南満州鉄道関連の投資も拡大し財閥系の企業が進出した。

(1)年産3千台以上の自動車や部品を製造する企業は事前に政府の許可を必要とする。

 主要産業を発展させる目的で重要産業統制法が制定され(1931年)、企業間の過当競争を抑えながら収益性と品質の向上を目指した。前章で触れた自動車製造事業法(1936年)は概ね次の内容である。

(2)許可の対象は日本法人に限定する。

(3)株主、取締役、議決権、資本金等の過半数は日本人とする。

(4)許可会社には補助金の他に増資、社債発行に特例を適用し外貨割当てや所得税も優遇する。

(5)関税率引上げ等で外国車を輸入制限し、ダンピング課税を制定する。

 更に、日中戦争(1937年)の影響で円安が進行し輸入価格も高騰、外国為替管理法と輸入品等臨時措置法の強化で海外送金と輸入も制限された。外資系メーカー(GM、フォード)は撤退を迫られた。一方、トヨタ、日産、いすゞは許可会社に認められ、「優良自動車部品及び材料認定規則」も制定され(1938年)、部品供給を担う中小企業も大量生産体制に向けて工程の効率化とコスト低減を図っていく。

この時代、軍部の傲慢は到底許されないが、自動車製造事業法がもたらした効果は評価したい。官が民の自動車産業を育成した結果、世界の自動車先進国には前例がないほど日本は急速に量産体制を整えた。当時の生産目標は年10万台。この官民連携は1970年代以降、モータリゼーションの安定期まで成果を出した。その展開状況と成果は次の5項目に要約されよう。

 ①重工業の黎明期に民間の活力と共に国家が人材、物資、資金を効果的に再配分することで、自動車産業でも開発・生産・販売を効率化できた。

 ②第二次大戦の直後からモータリゼーションが定着した1970年代においても、基本的に国家が主要な産業をリードする政策を継続した。その過程で民間企業の経営努力と相俟って自動車産業界を活性化させた。

③金融機関を中心とした日本特有の系列化政策で自動車メーカー、部品サプライヤー、販売店まで効率よく経営資源を循環できた。諸外国に比べて短期間で自動車産業立国を実現できた。

④部品供給を担う中小企業の中には戦前にフォードやGMに供給して技術を習得したところもあったが、国家と自動車メーカーの双方が率先して経営指導や資金、技術を支援したのは他の自動車生産国では珍しい。1970年代以降、日本の自動車技術を世界一に押し上げた「擦り合わせ技術」の土台となった。

⑤戦前にフォードとGMは車種ごとの系列別販売チャネルを設け、安定した生産と販売を維持した。

 雇用の安定にも貢献した。また販売金融会社をつくり、メーカーからの仕入れ代金決済と消費者への割賦販売システムも確立した。

 

右の画像は、昭和14年発行の、雑誌のに広告の掲載された、広告です。

当時、既に新車の拡販に(価格が高価だったのでしょう)割賦販売の仕組みが活用されていたとは、驚くべきことだと思います。

第2節 商工省標準型式自動車と日本自動車配給株式会社

 商工省は国産自動車メーカーを育成するために、吉野信次次官、岸信介重工業局長、小金義照自動車課長らの革新官僚が中心になり、1931年に国産自動車工業確立調査委員会を設置した。ここでは商工省標準型式自動車の規格と奨励制度を制定、軍用と公共用の2トン級中型商用車を企画した。鉄道省がシャーシとボディー、石川島がエンジン、ダット自動車が変速機、東京瓦斯電気工業が車軸を分担し、3社の販売組織として協同国産自動車を設立(1933年)、商品名を「いすゞ」と命名した。

 1939年、商工省に自動車技術委員会を設置、生産から販売までの一元的な統制を強化して業界の横断的な活動が進んだ。1941年には重要産業団体令に基づいて商工省の経験者が加わる自動車統制会を含む33の統制会が、1942年には「自動車及び部分品配給統制機構整備要領」に基づき、日本自動車配給株式会社が設立された。各都道府県には自動車配給会社が下部組織として設立され、自動車の供給は軍需優先の配給制になった。  

(九四式六輪自動貨車甲1937年日本自動車博物館蔵)
(くろがね四起1941年日本自動車博物館蔵)

第3節 自動車メーカーの主な動き

1933年 ダット自動車製造と石川島自動車製作所が合併し自動車工業設立

1933年 戸畑鋳物に自動車部を設置

1933年 豊田自動織機製作所 自動車部を発足

1933年 日本産業と戸畑鋳物が自動車製造を設立  翌年日産自動車に社名変更

1934年 日本産業の鮎川義介が日本GMと提携契約に調印

1935年 豊田自動織機 A型乗用車とG1トラックを試作完成

1935年 三菱重工業 ディーゼル・エンジン搭載バス「ふそう」を完成

1936年 豊田自動織機と日産自動車が自動車製造事業法許可会社に決定

1937年 東京自動車工業 東京瓦斯電気工業を吸収合併1949年いすゞ自動車に改称

1937年 トヨタ自動車工業が設立

1937年 日産 満州重工業に改称し満州に移駐

1941年 東京自動車工業 自動車製造事業法許可会社に決定 ヂーゼル自動車工業に改称

1941年 自動車統制会が発足

1942年 ヂーゼル自動車工業から日野重工業を分離

1942年 日本自動車配給が設立 

ダットサン 日本自動車博物館
ニッサン・バス80型 1939年 日本自動車博物館

第4節 豊田喜一郎氏の功績

 1924年、豊田佐吉氏が開発した画期的な織機、「無停止杼換式豊田自動織機(G型自動織機)」は、長男・喜一郎氏たちによって結実したが、この自動織機の特許権を英国の会社に売却した資金が自動車事業への参入資金となったといわれている。その後、喜一郎氏は佐吉氏の意思を受け継いだ「産業報国」の志と国際的な視点に基づき、アメリカ製の工作機械を揃えて自動車の試作工場を立ち上げた。1935年にはトヨダA1型試作乗用車を完成させ、大衆の為の乗用車造りを目指すと共に、自動車業界への行政指導の動向にも大きな関心を寄せていた処、国から自動車製造の許可会社に指定され、1937年にトヨタ自動車工業をスタートさせた。

 喜一郎氏は技術開発と共に企業経営の面でも、規模の経済に基づく合理化と「価格は市場で決まる」との考え方の下で徹底した原価低減に取り組んだ点は特筆に値すると思う。氏が提唱した「ジャスト・イン・タイム」に基づく中間在庫を持たない合理的な新しい生産手法は、後に「トヨタ生産方式」として具現化された。加えて協力部品メーカーの育成にも積極的で、トヨタ自動車下請懇談会を「協力会」と命名し18社が加盟(1939年)、戦後「協豊会」「栄豊会」に発展した。

 念願の乗用車トヨダ号の生産では技術的な課題に加えて原価を低減する活動は苦労の連続だった。「当社がそれぞれの部品を外注し始めた時は、多くの外注工場は本腰を入れて製造すべきものかどうか非常な疑惑の目を持っていました。然るに自動車製造事業法が出来てから一変しました」と述べているが、自動車製造事業法は喜一郎氏と多くの部品メーカーを奮い立たせ、その結果、トヨタGB、KB、KC型トラックの実現に繋がって行った。

 喜一郎氏は念願の小型乗用車(1~1.5リッター級)の開発に就いても他社より早く、終戦の年(1945年)にスタートさせている。また、技術者の採用にも熱心で、航空機産業から転向して来た人々も辣腕を振った。この人材登用はその後、小型乗用車、小型商用車、更に超小型大衆乗用車、大衆商用車の市場投入に時宣を得て開花した。

豊田喜一郎氏
 トヨタ自動車工業 拳母工場1938年

第5節 戦時の人々の暮らし

 私は第二次世界大戦の半年後、早くも日本が敗戦に傾き始めた1942年に生まれた。疎開先の富山で空襲を受け、避難する途中で遭遇した市バスやオート三輪車が燃えている様子は今でも強烈な記憶だ。

 大本営発表が嘘で固めた “戦況ニュース”を耳に、人々は配給される栄養の乏しい食料に甘んじ、“隣組”と言う地域活動が個人の尊厳を踏みにじっていく。「欲しがりません、勝つまでは」、「パーマネントはやめませう」、「ここも戦場だ」、「今日も決戦、明日も決戦」、「ガソリン1滴は血の一滴」、「贅沢は敵だ」、そしてついに「本土決戦」、「一億玉砕」・・・・・“日本という神の国は偉大なる精神をもってすれば必ず欧米の物質文明に勝てるのだ”と無理矢理叩き込まれた。“昭和時代の不幸の始まり”であった。

次回に続く

 

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