「もう一つの自動車史」 14

  自動車史キュレーター 清水榮一

  (1942年7月23日 東京市生まれ)

略 歴

1965年  4月  日産自動車㈱入社 サービス部、宣伝部、販売部

1984年  6月  日産販売会社代表

1988年  1月  日産自動車(株)営業部主管

1991年  1月  ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル (株) 取締役 

2001年 4月   モータリゼーション研究会主宰・片山豊氏執事

2007年  9月   日産自動車㈱アーカイブス活動 企業史キューレター

2019年  1月   日本クラシックカー・クラブ 監査役

2019年  4月  日本自動車殿堂表彰 準備委員

座右の銘       

   「独立自尊」  

 心掛けていること

      「歴史の時代背景(社会・経済・外交・文化等)を大所高所から客観的に俯瞰すること」

関心の高いこと

・近代日本の企業経営史

・自動車のマーチャンダイジング

・クラシックカーのメカニズムとレストアー

・アメリカン・カントリー音楽、ハワイアン音楽、クラシック音楽

・絵画(水彩)                              

 7. 商用車・・・社会の発展を担う生き物たち 

その 5

コ ン テ ン ツ

*今回は青色文字の項に就いて解説

Ⅳ. 日本の商用車の変遷概要

(3)商用車の時代別考察

(1)馬車・荷車から貨物用自動車へ

1926年の自動車先進国の生産台数(年間)は、アメリカ・4,300千台、イギリス・198千台、フランス・192千台、ドイツ・49千台、イタリア・64千台で、日本は僅か39千台であった。何とアメリカの1%弱、イギリス・フランスの20%程度に過ぎない。

1920年代の10年間で鉄道を除く日本の物流を担った諸々の車両の保有台数は、荷車(人力)が2,000千台規模で圧倒的に多く、次に貨物用荷馬車が続くが、この10年間に於ける保有台数の伸長では貨物用自動車が最も高い点に留意したい。

昭和恐慌の真っ最中と雖も、経済の規模は年々少しづつ拡大し、世間のロジスティクス活動は荷車から次第に効率の良い貨物自動車に転換し始めた史実が見えてくる。

1929年から1939年に於ける民間運輸事業者が保有していた商用車の銘柄は以下の通りで、フォード(1925年以降)、GM(1927年以降)がノック・ダウン生産した為にダントツに多く、続いてオート三輪、日産とトヨタのトラックの順である。

(出典:自工会資料)

またトラックと鉄道の輸送量比較では、1936年の場合、両方ともほぼ同じ合計輸送量であるが、輸送距離の長短によってほぼ棲み分けが出来て居り、トラックは10㎞以下が鉄道の約半数、最長距離も200㎞以下であった。

その後、高度成長期にトラックは鉄道の20倍以上の輸送量と長距離を担う迄に成長して行く(後述)。

(出典:自工会資料)

(2)オート三輪と小型トラックの普及

日本に於ける商用車普及の特徴の一つに1930年代中並びに戦後1960年前後の2度のピークを迎えたオート三輪の普及がある。この動きは大型トラックの様な国策指導によって普及したのではなく、商工自営ユーザーと中小規模の製造メーカーの自発的な活動によるものであり、普及した要因は次の4点と考えられる。

(1)第二次世界大戦に伴う一時的な民需の低下を除いて、庶民ベースの経済と小口物流は概ね順調に拡大していた事。 

(2)製造業や卸売業等での小規模運搬も経済性(低維持費)に加えて積載性(過積対応)や走破性(小回り)が重視された事。

 (3)1933年の運転免許改正で750cc以下は無免許で乗れた事(但し1947年に撤廃)。

(4)大規模メーカーは大型トラック、バスの生産で手一杯であった為に自然に規模別に製造の棲み分けが出来ていた事。

 梁瀬で販売したゴルハム自動車1922年 日本自動車で販売したオート・リァー・カー   くろがね三輪車1936年 日本自動車博物館蔵
 

小型トラックはダットサン・トラックが最も普及していた。大量生産による低廉な販価と小回りの良さにもさる事ながら、全国の販売サービス網が地場資本の出資を主体として拡充されていた点を忘れてはならない。

ダットサン・トラック 1934年頃        1937年頃     ダットサン トラック販売㈱の広告
    京三号   1936年                    運転個人教授の案内             

(3)「軍用自動車補助法」の制定

第一次世界大戦が終了した1918年、日本もドイツ、フランス、オーストリアに習い「軍需工業動員法」と「軍用自動車補助方法」を制定、製造メーカーと自動車所有者に政府が補助金を交付し、有事の場合に民間の商用車を総動員する体制が築かれた。

その後、「軍用自動車補助方法」は1921年、1929年、1930年、1931年、1936年にも改正され、適用車種と適用顧客層の拡大、製造補助金額と維持補助金額の改訂を行い、起業家や資本家の注目を集め、国産商用車の普及に一役買った。

翌1919年には全国統一の「自動車取締令」も制定され、東京や大阪などの大都市を中心に幹線道路計画も作られ、アスファルト舗装による道づくりも始まった。

「陸軍保護自動車」の広告                          軍用自動車保護法適用のダット・トラック    
        東京瓦斯電 A型トラック 1918年                  スミダ 6輪仕様   1930年

(4)フォードとGMの日本上陸など

1923年の関東大震災でレールに大きな被害を受けた市電に代り、俄作りではあったが輸入バスの効用が広く認識され、米国のGMとフォードが日本に生産工場を設立、日本の企業家は自動車産業への投資・経営に注目し始めた。

自動車産業は裾野が広いので、日本が両社から学んだ自動車産業政策、物資輸送・道路政策、設備投資・資金調達・生産・販売技術等の経営戦略・戦術は、その後の日本の発展に大きく寄与して行くのだが、不幸にも2度の世界大戦を経なければならなかった。。

欧米のモータリゼーションの場合は、先ず自分達で自動車というモノを考え出し、経営面の採算性を試算し、設備投資を行う極く初歩の準備段階から出発したが、日本の場合は、“自動車先輩国たる欧米”を手本に起業する事が出来た。

従って、日本の自動車産業とその商品は時代背景も影響し、欧米の様な趣味的要素よりも実用的要素に重点が置かれた。

  フォード製シャーシの円太郎バス    1924年            日本GMの新聞広告       シボレー・ トラック1939年 日本自動車博物館蔵

(5)「自動車製造事業法」の制定

政府と軍部は国産メーカーに共同開発を促し、商工省も「商工省標準型式自動車」と称する商用車統一規格を制定、奨励制度も導入し、鉄道省を筆頭に石川島自動車、ダット自動車、東京瓦斯電気工業が分担して本格的な量産が始まった。1936年には次の内容を掲げた自動車製造事業法を制定した。しかし外資系メーカーは日本から締出された。

(1)年産3千台以上の自動車を製造する企業は政府の許可を必要とする。

(2)許可の対象は日本法人に限定する。

(3)株主、取締役、議決権、資本等の過半数は日本人に属すること。

(4)許可会社には補助金に加えて増資、社債発行に特例を適用し外貨割当や所得税も優遇する。

(5)関税率の引き上げ等により、外国車の輸入を制限しダンピング課税を制定。  日本史を顧みる時、この時代に於ける軍部の傲慢は決して許されないが、製造メーカーは急速な勢いで自動車製造事業法に規定される商用車の量産体制を築けたのは評価に値する。また企業間の合従連衡や様々の権謀術数も見え隠れした。

アメリカと西ドイツに”自動車メーカー・御三家”という表現がある。日本でもモータリゼーション導入期に於けるいすゞ、トヨタ、日産の3社をその様に表現する歴史家が多いが、この1930年代に既にこの御三家が寡占化傾向を示していた事が解る。

ちよだ 6輪仕様  1931年   いすゞTX40 商工省標準型式自動車 1933年     トヨタG1型   1935年 
 米国の部品と設備による日産トラック 1936年 大成功を修めた日産の4トン・トラック     くろがね四輪駆動車                                               
                                           日本自動車博物館蔵  
 
  石川島自動車 1927年            三菱ふそう 第一号バス   1932年        共同国産  乗合バス  1937年

昭和時代が10年を経ると、市井の人々が都市郊外に住み始め、経済生活圏が拡大し、鉄道と共にバスの利用者が伸びた。自動車運転免許も普及し始め、業務として運転する「就業免許」も誕生した。1938年以降はハイヤーとタクシーの利用者数が漸減している背景に鉄道、地下鉄、バスのサービス網が拡充して来た事を裏付けていよう。

                                          <次号に続く>

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