「日本特有の自動車発展史」4

日本特有の自動車発展史 4

自動車史 キュレーター  清水 榮一

第3章 敗戦後の官民連携、行政指導と熱心勤勉な経営が支えた自動車産業

第1節 占領から自立に向かう自動車行政

マッカーサー率いるGHQは「民主改革指令」を発し、①女性の解放、②労働組合の結成、③教育の自由主義化、④圧政的諸制度の撤廃、⑤経済機構の民主化(財閥解体、農地改革等)を、ジョセフ・ドッジが「経済9原則」を制定し、為替レートが固定され(1$360円)、金融機関の救済と傾斜生産方式が始まった(1947年)、自動車産業も石炭、電力、鉄鋼と同様に重要視された。

海外諸国との関係では、「外国為替及び外国貿易法」と「外資に関する法律」も整備され、日本開発銀行、日本輸出入銀行等の政府系銀行が新設、「企業合理化促進法」を制定し資産再評価、優遇税制処置等の政策を展開した。その後、IMF14条国になり国際復興開発銀行に正式加盟して外国資本からの保護と外資導入の道が開かれた。

企業もアメリカ式の管理基準を採用し、①トップ・マネジメントの権限の強化、②管理会計の導入、③統計的品質管理の導入(デミング・サイクルの設置等)に取り組んだ。これらの努力は「神武景気」(1955年~1957年)、岩戸景気(1958年~1961年)として開花していく。

戦前に実行された「軍用自動車補助法」と「自動車製造事業法」は、限りある経営資源を効率良く配分し、無用な競争を排除し、物流輸送を鉄道と共に自動車に託した。この政策は戦後に商用車から乗用車中心に変わる時代にも継続され、物品税や関税の軽減、外貨の規制、補助金交付、低金利融資、特別償却の認可等にも及んだ。戦後2年目の1947年に自動車取締令が改正、新車両規格で小型自動車は1500cc迄となった。この年に自動車技術会も発足。トヨタが生産累計10万台を達成し乗用車のSAと商用車のSBを、日産が新ダットサンを発売した。販売チャネルは日本自動車配給会社が解散し(1946年)、戦前の様なメーカー系列別の販売チャネルに復帰した。

(いすゞ TX80 1948年)
(日本自動車博物館蔵)
(トヨペットスーパーRHK1953年)

第2節 通産省の大いなる構想

商工省(1949年通産省に名称変更)は、GHQの指導を受けて「自動車工業基本対策」を策定し(1948年)、輸入車ではなくて国産車が新規需要を担う方針を公表した。更に朝鮮特需で得た利益を輸出強化に充てる為に「自動車工業合理化に関する答申」を策定(1951年)、また貿易自由化に備えて自動車保護政策も定めた。輸入車は1952年に1万台、53年に2万台程度でユーザーから追加供給を迫られたが、国産メーカーを育成する方策に則り、「乗用車関係提携及び組立契約に関する取組方針」を発表(1952年)、海外メーカーとの技術提携を促進し、国民車構想も策定した。これらの政策は奏功して、国産乗用車の生産台数は約33倍(1960年/1952年)に増大した。

部品工業の育成策も戦前に制定された「優良自動車部品及び材料認定規則」を復活(1947年)、新たに「機械工業振興臨時措置法」(1956年)、「小型自動車工業研究補助金」(1951年)、「中小機械工業設備近代化資金融資」(1954年)等が制定され、自動車メーカーもサプライヤーの系列化を推進した。一方、独立部品メーカーとしての実力をつける企業も現れた。運輸省は交通事故の増加に対して「道路運送車両法」を制定し安全で豊かなクルマ社会への構想を示した(1951年)。

  日野ルノー サマーセット953年  
(日本自動車博物館蔵)
 いすゞヒルマンミンクス1958年   
(日本自動車博物館蔵)
日産オースチンサマーセット1953年
(日本自動車博物館蔵)
スバル360 1960年
(日本自動車博物館蔵)

第3節 自動車メーカーの主な動き

1945年 GHQが民需物資生産再開を認可、トラックの生産再開を許可 2年後に乗用車も再開

1946年 日本自動車配給㈱ 解散し販売会社再編開始

1949年 ヂーゼル自動車 いすゞ自動車に改称

1950年 トヨタ自動車販売設立

1953年 外国企業との提携契約成立(日産、いすゞ、日野、三菱)

1954年 全日本自動車ショウ開催

1954年 トヨタ自販 SKBライトトラック発売

1955年 日産 新ダットサン発売

1955年 トヨタ 初代トヨペットクラウン発売

1958年 富士重工業 スバル360を発表

1958年 米国トヨタ設立

1959年 いすゞ エルフトラック発売

1960年 米国日産設立

第4節 神谷正太郎氏の功績

自動車は使用者側から見ると、ヒトやモノを快適・安全に運び、運転する愉しみも多く、高額商品でもあるのでメディアを始め多くの人々の関心の的になる。一方、人々の目には見えにくい技術開発、商品企画、設計、購買、製造、販売、アフター・サービス等の功績はかなり時間を経過した後にユーザーに知られるが、これらの活動はユーザーや市場の動向を企業活動に反映するマーケティングが基本となる。

自動車業界のみならず、日本の産業界のマーケティング史に於いても“販売の神様”と敬慕された神谷正太郎氏の功績を知れば知るほど、感銘を受けるのは私だけではなかろう。

神谷氏は三井物産から日本GMに移り、両社で販売業務に携わった後、豊田喜一郎氏の厚い信頼を得て招聘され、1935年10月豊田自動織機自動車部に販売責任者として加わった。

戦時中、国政の下に組織された日本自動車配給㈱では常務取締役車両本部長の重責を担った。終戦に伴い解散した下部組織で各府県にあった地方自動車配給㈱の中から優秀な販売会社にトヨタ車の販売を勧誘した。販売権を獲得した販売会社のオーナーの多くは地元の名士や事業主でもあった。

1950年にはトヨタ自動車販売㈱(トヨタ自販)の初代社長として全国販売網の拡充やマーチャンダイジングに勤しんだ。その後、画期的な新商品のトヨペット・ライト・トラックSKB型(後のトヨエース)を増販する時に全国に新たにトヨペット店系列を設け、いち早く複数販売店制を確立、1960年代のモータリゼーション発展期にはカローラ店系列、オート店系列を設立し量販体制を展開していった。また割賦販売、販売テリトリー制、運転教習所、整備専門学校、会計基準の統一等を推進する傍ら、北米を始めとした輸出も積極的に展開した。

販売会社の使命はお客様の要望と市場の動向をシッカリ捉えて自動車メーカーにフィード・バックする活動を基本に自動車メーカーが生産した商品を常に計画通りに販売する事、更に潜在需要を掘り起こす為に常に自らの販売業態革新を図って行く事が重要であろう。換言すれば、売り抜く底力を備えているからこそ自動車メーカーと共にユーザーと市場の要望を実現化出来るのだ。「市場は創るもの」とし、「一に需要家、二に販売店、三に製造者」は神谷氏の哲学であった。

神谷氏の人柄については、苦楽を共にした日本のトップディーラー、愛知トヨタの初代社長、故・山口昇氏は「神谷さんは正直過ぎるくらいの人でした。他人に辛抱づよく、自分に対して厳しかった」と語っている。

(神谷正太郎氏)
サンフランシスコに陸揚げされた初代クラウン

第5節 私の記憶から・・・・・ミナト・ヨコハマ、自動車ショウ

敗戦2年目に歌謡曲「港が見える丘」がヒット、横浜から発信されるアメリカ文明と文化が新しい世相に。アメリカ軍MPのジープや家族の乗用車が街を行く。ポンテアック、ダッジ、シボレー、ビュイユック、オールズモビル、ハドソン、ナッシュ、ヘンリーJ、クライスラー、フォードなど。多くの日本人は外国人や新しい家具や清潔な台所用品を見れば全て“アメリカ人”、“アメリカ製”と何の疑問もなく思い込んでいた。

復興が進むに伴ってバスやタクシーは木炭から電気に替わり、その後、ガソリンのトヨタSB型トラックやSD型乗用車が、ダットサンは860cc・20馬力になり、世の中は活況を取り戻したが、道路は未舗装が多く、“国産車=頑丈”のイメージが定着していった。

6歳の私は乳母車のフレームをベニヤ板で覆い“マイ・カー”を作った。塗料はメリケン粉と歯磨粉を混ぜた「白色」だが、夜中にネズミに食べられ幼な心に悩みは尽きなかった。ゴム鞠に穴を開けて竹笛を差し込んでクランクソンを作った。

小学6年生の頃(1954年)、父にせがんで第1回全日本自動車ショーに連れて行って貰った。トラック、バス、オート三輪、二輪車が主で乗用車は少なかったが見学者は54万人に達した。私は浦島太郎の様に時の過ぎるのを忘れた。この催物の全体企画は当時45歳の片山豊氏だった。半世紀後に私が片山翁の謦咳に接する事が出来るとは思いもしなかったが、神はきっとご覧になっていたのだろう・・・。

            

              (愛しの“マイ・カー”)

 

(片山豊氏 第一回自動車ショーの会場で)                 

戦後11年目(1956年)、歌手・宮城まり子の「ガード下の靴磨き」、フランク永井の「夜霧の第二国道」、マヒナ・スターズの「泣かないで」、島倉千代子の「この世の花」、大津よし子の「ここに幸あり」、春日一郎の「ああ、ダムの町」、三浦光一の「東京の人」、小坂一也の「青春サイクリング」、井沢八郎の「あゝ上野駅」、ジョニー・レイの「Just Walking in the Rain」、エセル中田の「カイマナヒラ」・・・、映画ではジェニファー・ジョーンズの「慕情」と「終着駅」と「武器よさらば」、ジャクリーヌ・ササールの「芽生え」、マレーネ・デートリッヒの「モロッコ」、ウイリアム・ホールデンの「戦場に架ける橋」等・・・。

明日を信じて真っ直ぐに、明かるく、時に少し悲しく、歌い手や銀幕のスターたちは自動車の魅力と同様に日本の国民一人一人を現実の主人公にしてくれた。

次号に続く

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