「もう一つの自動車史」 13

  自動車史キュレーター 清水榮一

  (1942年7月23日 東京市生まれ)

略 歴

1965年  4月  日産自動車㈱入社 サービス部、宣伝部、販売部

1984年  6月  日産販売会社代表

1988年  1月  日産自動車(株)営業部主管

1991年  1月  ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル (株) 取締役 

2001年 4月   モータリゼーション研究会主宰・片山豊氏執事

2007年  9月   日産自動車㈱アーカイブス活動 企業史キューレター

2019年  1月   日本クラシックカー・クラブ 監査役

2019年  4月  日本自動車殿堂表彰 準備委員

座右の銘       

   「独立自尊」  

 心掛けていること

      「歴史の時代背景(社会・経済・外交・文化等)を大所高所から客観的に俯瞰すること」

関心の高いこと

・近代日本の企業経営史

・自動車のマーチャンダイジング

・クラシックカーのメカニズムとレストアー

・アメリカン・カントリー音楽、ハワイアン音楽、クラシック音楽

・絵画(水彩)                              

 7. 商用車・・・社会の発展を担う生き物たち 

その 4

Ⅳ. 日本の商用車の変遷概要

1)日本の自動車産業3つの特徴

僭越ながら私は約3年前、このブログ欄で「日本特有の自動車発展史」を寄稿させて戴き、「自動車産業は現在、創業から100年、敗戦から80年、高度成長から50年、グローバル化から30年になるが、いつの時代も強力な経済発展の推進役であり、その基礎を1920年代中盤から1960年代の半世紀間に培った」と記した。

その経済発展の推進役たる自動車は大雑把に言えば商用車は生産財、乗用車(営業車を除く)は消費財である。商用車は有事を除いて主に民間企業で使われるが、ロジスティクス活動を担う社会資本の一部とも言えようか。従ってその国の経済活動が発展期過程にある時期は商用車が、成熟過程にある時期は乗用車が活躍して来た傾向が伺える。

今日、成熟過程にある日本では市井の人々に馴染みが薄くなった商用車ではあるが、実は商用車こそ人々の生活や企業の活動に直結し大変貢献して来た貴重な史実が存在する。その様子は概ね次の3点に要約出来よう。

<1>昭和初期から1960年後半の経済・社会の成長期には商用車需要が乗用車需要を凌駕 した。謂わば貨物物流>乗用人流。

<2>自動車産業の要たる商品技術、生産技術、マーケティング戦略、サプラィヤー政策等の経営基盤と根幹技術は商用車主体の時代に概ね構築され、1960年中期以降、乗用車にも応用された。

<3>経済、社会、外交等の諸課題に積極的に対応した国家の産業行政指導と支援は、先ず商用車の普及に奏功し、1950年代以降も自動車生産の合理化や環境問題の解決を推進し、1980年以降、世界に冠たる自動車立国になる事が出来た。

(2)商用車政策を優先した背景とその過程

本稿第Ⅰ章(2022.3月掲載)で、「世界の先進国は近代化して行く過程で新しい資源を発見し、新しい技術を発明し、物財の流通を改革して行くイノベーションを繰り返す事によって経済を推進・加速して来た。そのイノベーションを支えて来た経済活動の一つに商用車によるヒトやモノの交流・交易・運搬・補給活動、即ちロジスティクス活動で貢献している」と記した。因みに日本自動車博物館を創設された故・前田彰三氏は、「自動車史の伝承活動で最も大切なテーマは、“商用車がロジスティクス活動に多大の貢献をして来た歴史を伝える事”」と仰っている。

今日、高度情報化時代になり、複雑なサプライチェーンの最適化が進展中だが、明確に断言出来る事は“実際にロジスティクス活動によって多くのモノが効率的に移動して初めて経済的付加価値が極大化する”という事実からも商用車の役割は極めて大きい。 

日本では1920年代中盤の昭和初期から自動車の効用が認識され始めたが、“ロジスティクス活動を担うトラックを筆頭とする商用車こそ貴重な社会資本“として認識され始め、その後、昭和金融恐慌、不安定な政局、軍部の暴挙、度重なる世界大戦と敗戦、被占領下での苦渋の日々の経験を経て、勤勉な人々による柔軟な価値観と消費姿勢、更に長期的視野に基づいた企業経営によって高度経済成長を遂げた。事程左様に商用車はロジスティクス活動を通じ“激動する時代”を担ったし、今日でも同様である。

また商用車の開発・生産・販売で醸成したノウ・ハゥは1960年代以降、乗用車を主体としたモータリゼーションに引き継がれた。

 商用車が乗用車より多く生産され、ロジスティクス活動を推進して来た過程は概ね次の5段階を経て来たと考えられる。

(*)産業行政指導の社会的効果

 各時代に最も重要な産業に対して国の資源と労働力を優先的に配分しつつ、法制、インフラ、財源等を整備して産業界全体の協調と適正な競争を推進すると共に、他の国々との貿易・外交を積極的に進めて来た“日本ならでは”の国の基幹政策。

(*)産業経済政策の代表例

・1920年代・・・・・・・欧米諸国の近代化へのキャッチ・アップ政策。

・1940年代・・・・・・・第二次世界大戦下での経済統制、敗戦下の治安維持政策。

・1950年代・・・・・・・重要産業の合理化、未成熟産業の育成、秩序ある輸出拡大、外 貨制約下での輸入管理政策。

・1960年代・・・・・・・貿易と資本の自由化に対処する国際経済システム構築の政策。

・1970年代・・・・・・・世界経済への仲間入りを目指した知識集約型産業構造への転換政策。

・1980年代・・・・・・・総合エネルギー政策を筆頭に、民間企業が投資困難な大規模研究開発の投資政策に重点を置き、また、通商貿易政策では多国間の国際ルールに則った政策を推進。

・1990年以降・・・・・長期不況を克服する為の経済構造改革政策。政策手段や政府の関与に就いては従来とは異なる民間企業の創意と市場の調整機能に重点を移した政策の展開。  

(3)商用車の時代別考察

①黎明期(1924年以前)

牛馬車の時代を含めて、日本は英国、アメリカ、ドイツ、フランス等の先進国より公共交通機関の発達が遅れていた。その原因の一つは265年もの長期間に亙る江戸時代は世相が安定して居り、社会の仕組みを改善するマインドは低く、鎖国により情報量も極めて少ない環境下で移動手段は長距離・大容量の貨物は船舶と鉄道と牛馬車、軽量貨物は徒歩と駕籠による域内移動が主体であった。また平民や武士や財貨の迅速な移動は中央集権国家の江戸幕府には“危”と考えた節もあろう。

しかし農産物や繊維品などの日用品を始め材木や石材などの資材を生産地から消費地へ運搬する場合には利根川等の水運を利用した。大阪や名古屋でも運河を拓いている。一方、当時の陸路は舗装もされておらず、せいぜい小型の荷車を引いて短い距離を移動する程度であった。

やがて幕末を迎えると文明開化への大転換が始まった。紡績、製紙、造船、小銃製造等が次第に軌道に乗り、開国後、明治政府は1870年に工部省を設置して、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信等を官営化する一方、1881年には農商務省を設置して商業と農業を振興した。1925年には農商務省から商工省が独立、国産商用車を基本とした自動車関連政策に本腰を入れ始めた。     

日露戦争直前の1903年、日本初のバス事業が広島で起業され、馬車に米国製のエンジンを搭載した。他の地域でも外国製のエンジンとシャーシを輸入してトラックやバス、更には自転車やリヤ・カー等にも装着したり、オートバイを三輪車に改造した。業績の良い会社や商店は自社商品の配送に外国製の商用車を輸入して使用した。かの片山豊翁も中学生の頃、藤沢駅前で英国人がスミス・モーターを装着した4輪車を運転している姿を見て大変熱くなったとか。

この頃の輸送用車両は、馬車98千台、牛車28千台、荷車135千台、人力車185千台であったが、愛知県、京都府、長野県は乗合自動車営業取締規則等の法令を定め、1916年には東京で初の自動車教習所が設立された。

1918年には自動車製造企業と使用者に補助金が支給され、有事の折には車両を軍に提供する事を謳った「軍用保護自動車補助法」が設けられた。

三井呉服店のフランス製・クレメント1903年    後部にスミス・モーターを付けた4輪車  スミス・モーターの広告

1911年、快進社自働車がダット號を完成。更に1918年、渋沢栄一率いる東京石川島造船所(後のいすゞ)も英国のウーズレー社と提携し1.5トントラックを製造、両車とも後に「軍用保護自動車補助法」が適用された。

日本は第一次世界大戦の勃発に伴い、海運、鉱山、繊維等の企業に束の間の繁栄を齎した。しかし1920年以降は終戦の反動による株式の大暴落により多くの銀行が破綻した為、国産工業振興、緊縮財政、海軍軍縮が叫ばれる様になり、1930年代の世界恐慌も影響して極めて不安定な政局が長引く中、自動車産業政策は陸軍省整備局の許で尚一層、軍事輸送を主体とする方向に傾いて行った。

   快進社 東京 1922年         ダットラの先祖・リラ―号トラック1925年      ウーズレー1.5トントラック 1924年 

く次号に続く>

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