日本自動車殿堂 研究・選考会議議長 鈴木一義 氏の紹介文
人と車の調和ある発展の道を拓く
日本自動車博物館 館長
石黒産業株式会社 代表取締役会長 前田 彰三 氏
前田彰三氏は、昭和5年に富山県小矢部市で生まれ、旧制富山県立高岡中学を昭和23年に卒業した。進学を希望したが、地元に帰らないことを危惧されたご両親に許されなかった。学校に行くのだったら、親子の緑を切る、とまで言われては引き下がるしかなかった。とは言え、一度は東京に出てみたい気持ちを抑えられず、何とかご両親を説き伏せ、東京に住んでいた叔父を頼って上京した。特にやることがあったわけではなく、東京生活を楽しむつもりであったが、実家が煉瓦会社をやっていたこともあり、日本煉瓦製造会社で一年ほど臨時工を勤めた。
横浜の自動車修理工場でバイトをした時には、まだ珍しかった車に触ることができた。車は好きだったので、暇なときには神田辺りまで、道を通るビュウイック等の外車を見に行っていた。様々な仕事を経験したが、印象に残るのは、東京裁判(極東国際軍事裁判)の行われた市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部の石炭ガラ捨てであった。石炭ガラをフォードトラック(1938年式)に積み込み、多摩川河原まで捨てに行くバイトであった。満杯の荷台に見つからないように捉まって、でこぼこ道を数十キロ乗ってゆくのは大変だったが、自動車に乗るのは楽しくもあった。この石炭ガラ捨て場は正面建物に向かって左側にあり、トラックを降りて仕事を始めようとして、ふと建物の窓の方へ目をやると、そこに見覚えのある人物が静かにたたずみ外を見ていた。東条英機氏であった。戦時中に父親から幾度となく聞かされていた雲の上の人物が、前田氏の目前に、米軍の取り調べ前の一時を見せていた。まだ若い前田氏は声を掛ければ届く距離の、窓を隔てた東条氏の心の内を想い、表わしようのない感情が込み上げたという。
この東京での生活は、父親が病気になったという芝居によって終わり、富山に帰ることとなった。しばらく家業に専念したが、給料は総て車につぎ込んでいた。国産自動車メーカーの株を買ったのである。特に、個人的に好きだったマツダやいすゞの株を買った。父親が株で損をするのを見ていたので、応援するつもりであれば損しても後悔しないと考えた。当時は、馬が3頭ほどおり、馬車で注文の煉瓦を駅まで運んでいた。昭和30年代からは、いすゞやふそうのトラック、マツダの3輪自動車も使った。マツダはディーラーと気が合ったこともあり、広島のマツダ(東洋工業)本社まで出かけて、良い車を作ってくれるように提案したほど、気に入っていた。馬車から自動車を使うようになって、直接、注文先に煉瓦を納入するようになり、北陸を始め日本各地に行くと、国産の古い自動車や、乗られなくなった自動車が案外多いことに気づいた。そう思って見てみると、メーカーによらず、車種ごと、時代ごとにまだいろいろ残っていた。自身も、煉瓦会社の仕事で、三輪車やトラックを使っていたし、車は若い頃から好きであったから、これを残さないともったいない、と思った。戦前からある古い1台のダットサンは、誰かが残すだろうが、次々にモデルチェンジされるトヨペットは、誰が残すのだろう。
モータリゼーションが始まった昭利41年、日本の車もどんどん良くなっていった。次々と性能の良い新しい車が作られ、国産の自動車には、誰もがそれぞれ、いろいろな思い出を持っているにもかかわらず、古くなった車は顧みられることなく、また残したくても引取先がなく、廃車されていった。
前田氏は、昭和43年に、「よし、車を集めてやろう」と思った。煉瓦の納入で訪れた関東や中部で、帰りのカラになった荷台に、人伝てや地元で聞きつけた古い自動車を譲ってもらって、トラックに積んで帰った。あっという間に数百台の車が集まった。雪国で煉瓦会社であったから、集めた自動車を、いくつかあった馬車小屋や石炭置き場などの倉庫に保存できた。雪の降らない関東では、シートをかけておけば簡単に保存できるが、蒸れたりして長期の保存には向かないし、結局は腐らせてしまう。雪国で外に置くことができない富山で、使わなくなった馬小屋や倉庫を保存・メンテナンスのために使えたのは幸いであった。

昭和53年、念願の「日本自動車博物館」を、地元富山県小矢部市に開館することができた。日本自動車博物館の名称も、おこがましいとは思ったが、地方でやるにはこのくらい立派な名前が不可欠であり、やるしかないということもあり決めた。
オープン後、豊田英二氏が博物館を訪れたことがあった。見学後、前田氏は英二氏に、なぜトヨタも自社の自動車を博物館などに残されないのですか、と尋ねてみた。英二氏は、「私どものような愛知の田舎の自動車メーカーが世界のフォードやメルセデスのように、自動車博物館を持つなどということは、とてもおこがましくてできません」と語られたという。その後、前田氏が監査を務める銀行の旅行で愛知県の鞍ガ池を訪れたとき、仲間に「おまえトヨタの社長を知っているだろう。電話をかけてみたらどうだ」と言われて、仕方なくかけたところ、ちょうど本社におられて、「おいでなさい」と言われる。「道が不案内てどう行ったらよろしいでしょうか」と申し上げると、「じゃあ、迎えに行きましょう」と言って、直接、迎えにこられ、社長宅に通された。ちょうど、章一郎氏が社長になられ、英二氏は会長になられたばかりの頃だったようで、「前田さんと違い、トヨタは私と社長で一人前の会社です」というようなことを言われ、前に博物館でお会いした時と変わらず、なんと謙虚な方だろうと、改めて感じたという。
その後トヨタは創業50年の1987年、長久手町に「トヨタ博物館」を建設した。博物館での前田氏のあの時の問いかけを、英二氏はどのように思われたのだろう か。
小矢部市にあった日本自動車博物館は、バイパス道路の建設で立ち退くこととなり、温泉街に近く、人の来てくれる小松の現在地に移転した。本当の赤煉瓦積みで作られた洋風3階建ての博物館には、黎明期から戦後の車まで、二輪車、乗用車、バイク、バス、など走行可能車約500台を12,000平方メートルの広大なスペースに展示している。またトイレにも工夫が凝らしてあり、世界各国の様々な様式のトイレが楽しめる。
現在、年間20数万人が博物館を訪れてくれるという。
日本自動車博物館のホームページを訪れると、前田館長の挨拶がある。「日本が戦後50年経った今日、振り返ってみるとわずか30年にして世界の経済大国と言われるようになりました。日本の産業の主峰は何と言っても、自動車産業ではないでしょうか。
こうした自動車の流れをみつめ将来を知るために、温故知新のごとく日本で使用された内外の車を多くの皆様の展覧に供し、あらためて自動車時代が何であるか、真の交通発展は何か、今日の自動車時代でより一層人と車の調和のある生活の向上に少しでもお役に立ちたいとの願いから、日本自動車博物館を設立いたしました。」
展示以外にも、まだ数百台の自動車が倉庫でレストア、保存されているという。前田氏の願いが多くの人に伝わって欲しいと思う。
(鈴木 一義)








