板金職 鈴木公一氏の話 第4回 インタビュー:三重宗久
<イスズへの転勤>
京成自動車が本八幡に移転してからは、成城の公営住宅に住んでいましたから、往復が大変になったんですよ。その頃っていうのは電車の本数も今みたいに多くないから。それとね、本音を言うと、大きな会社に入りたいっていうのが頭の中に入っていたんですよ。
そうしたら新聞にいすゞの募集広告が出ましてね。日本電気にいた兄貴に相談したら、お前の人生なんだから、お前の好きなようにやれって言ってくれた。その兄貴は一緒に山に行ってたんですよ。だけどそのあとで山で失敗してね。兄貴が仲間の人達と山へ行った時に、途中でバテたらしいんですよ。皆一緒に山を下りるって言ってくれたらしいんですけど、休みをやりくりして来てるわけだから申し訳ないと思ったんでしょうね、無理をして登ったんですよ。それで帰ってきたら体調を崩して、1年ほど入院して亡くなりました。
その兄貴が好きなようにやれって言ってくれたんで、いすゞの試験を受けたんですよ、昭和36年(1961年)の8月に。その時の試験は一般常識ですよ。新聞に出てるようなこと。それとクレペリン検査、並んでる数字を左から足していくやつですね。あれでその人の性格がわかるって言ってましたけどね。そうしたら、まあ、採用通知が来た、と。電報だったと思いますよ、あの頃はまだ電話を引いているところは少なかったから。
それで9月1日からいすゞ自動車大森製造所板金工です。京成自動車の方はね、1週間でやめさせてくれましたよ。やめたいって言った、その週末には退職しました。藤本さんて工場長が、君は大きな会社へ行くのかぁ、ようやっと仕事もできてきたところだから、会社としては君にこれから稼いでもらう時期なんだがなあって。先輩たちの中には、いやな目で僕のことを見てた人と、お前は見込みがあるから叱ったんだぞって言ってくれた人と、両方がいましたね。
僕としては、ただやめていくだけだと思ってたけど、まわりはそういう目では見ていなかったかもしれない。今考えると、その人達のこともわかりますね。まだ僕の下には若い子は入っていなかったし。
<話は違っていた>
大森に入ってびっくりしたのは、試用工としての採用だったんですね。僕は試験受かって採用されたんだから、そのまま本工だと思ったわけ。そうしたら試用工制度っていうのがあって、もらった採用通知をよく見たら、試用工として採用するって。募集の時にそう書いてあったのかもしれないし、他の会社でも普通のことだっかのかもしれないですけどね。
胸のバッジの中に黄色い線が入るんですよ、試用工って、すぐわかるように。次がブルーの帯の選抜試用工、何も帯が入っていないのが本社員。でも、試用工ではいって6か月たつと、選抜試用工になる試験受けられるんですよ。中途採用の場合は、その試験があるまでもう少し待たないといけないこともあるんですけどね。途中で欠勤していたり、技術的にも未熟な場合には、班長が試験受けるオーケーを出さないから、もっと時間がかかるわけです。まわりの人の中には、もう2年ぐらいやってるっていう例もありましたね、試用工のままで。
それでね、兄貴が亡くなった時に、オレは葬儀に出ないって言ったの。選抜試験受けるには、一日でも休むと不利になると思ったからね。実際に会社の方では、葬儀でも休むな、なんてことまでは言っていなかったみたいですね。結局、会社休んで葬儀に出たけど、選抜試験には何の問題もなかったから。僕が生真面目に考え過ぎていたみたい。
ヒルマンの溶接から・・・・・大森製造所でのスタート
昭和36年の9月1日からいすゞ大森の板金工。でも実際の仕事はスポット溶接、溶接屋だったんですね。で、大森へ行ってびっくりしたのは、ヘルメットに安全靴、先っぽに鉄が入ってる靴です。あれ、結構重いんですよね。それにごわごわの前掛け、本当は首からかけるようになってるんだけど、9月で暑い頃だからみんな上は折りたたんじゃって、腰から下だけにしてましたね。あと耳栓と肘まである長い手袋。それで作業をやるわけです。僕は京成自動車しか知らないから、そんな安全具なんて見たこともない。そっちはセッタに足袋、軍手だけですからねえ。
その大森製造所っていうのは、今の大森ベルポートのところです。工場の隣が本社でね。僕が配属されたのは、ヒルマンのフロアの溶接。ヒルマンでも、まだテールランプが小さかった頃のモデル。
註:いすゞは英国ルーツ・モータースと提携して1953年10月からヒルマンのノックダウンを開始した。1956年9月にはほっそりした新型に切り替えられると同時に、少しずつ国産化を進めていった。翌1957年10月には全て国産化されている。新型は1961年モデルからリアスタイルに変更を受け、テールフィンの名残りのようなフェンダーと大形のテールランプを持つようになった。1962年4月のベレル、63年11月のベレットの市販開始に伴ってヒルマンはその役割を終え、64年6月でその生産を打ち切られた。
<流れ作業の始まり>
僕が配置されたところは5人か6人のチームでね、その手前に外から運ばれてきたパネルが置いてあるんですよ。で、定盤の上に治具がのっていてね、ボディのフロアの前の方と後ろの方、それにエンジンルームをその治具の上でスポット溶接するわけです。そこのリーダーさんがいましてね、その人が「よーし」って言うと、一斉にババババって打っていく。最初僕が慣れていない時は、リーダーさんがクレヨンで印をつけてくれたんですよ、こことここに打つんだよって。
工場の上にレールが通ってたんですよ。そこからスポットのガンだとかが下がっている。ただぶら下がっているだけだと邪魔になりますからね、ばね測りのようなもので吊ってあります。それに貝殻のような形のバランサーっていう吊り具がついてましてね、人が引張れば軽く動くように、それで調節できるようになってました。
僕らの部署の次のステージがメインボディ、ボディパネルをつけるところ。そのふたつのステージの間にスペースがあるんですよ。その間は今の生産ラインと違って、台車を押して移動するんですよ。で、一日42台の生産サイクルなんですよ。仕事は8時から4時までですから、実働7時間、1時間に6台、ということは10分で1台です。残業になる時はね、4時から15分の休みがあって6時まで、実働1時間45分、それで10台増しになるんですよ。 だけど僕らの調子がいい時は、仕事が進んで、次へ送る台車の上に出来たフロアを重ねていくんですよ。そうすると、僕らは少し休める。
<藤沢工場への、移転>
その大森工場でスポット溶接やっていたのは、入った年の年末までです。年末の終業式の時に、仕事が終わってからみんな講堂へ呼ばれて、三宮五郎さんていう社長が挨拶して。あー、この人が社長なんだ、と思ったら、その12月30日に亡くなっちゃった。だからその三宮社長は一回姿を見ただけですね。その挨拶が、新しい藤沢工場への移転だったんですね。
註:いすゞは生産体制の増強のために、新しい工場を藤沢市土棚に建設、1960年11月26日に起工、1年足らずという短期間で第一期工事を終えて、翌61年11月2日には開所式を行っている。鈴木公一氏が応募した工員募集も、この藤沢工場完成に伴ったものであったのだろう。なお、藤沢工場生産のヒルマン第1号車完成は1961年1月23日、ベレルは2月23日であったという。4月26、27日には、来賓や販売店、協力会社、それにもちろん社員とその家族などを招待して完成記念見学会を行っている。
<藤沢工場の雰囲気>
それで、あくるとしの1月5日から藤沢工場です。大森の治具をいつ移動したのか、僕らにはわからなかったけど、同じヒルマンの生産をやりました。でも、やっぱり最初のうちは問題がありましたよ、バランサーの吊りが悪い、とかね。でもいくらか大森よりよくなっていたんじゃないですか。藤沢へ行ったら台数が増えていた記憶がありますからね。
仕事はスポット溶接で、藤沢でも同じです。スポット溶接はそんなにつらいとは思わなかった。これが自分の仕事なんだと割り切ってましたから。でも、もう少し続けていたら、いやんなってたかもしれない。ただね、先輩たちがものすごく明るくてね、いい人達ばかりでしたよ。班長さんがね、長井さんて方だったんですよ。それで僕が藤沢工場へ行った次の年の正月に自宅へ呼んでくれたんです。和を大切にするおとなしい方で。
隣のステージともリーダー同士はものすごく仲が良くて、たとえ僕らが失敗した時でもツーカーでね。あー、失敗したのかっていってカバーしてくれた。これは大事なことだと思うんですけどね。誰も好んで失敗するわけないでしょう。それを鬼の首でも取ったように言うんじゃなくて、組み立ての方でカバーする。そうすると結果的には速くできるわけですから。
<ブルーの線が、消える>
試用工から、選抜試用工の試験受けて、受かるとバッジにブルーの線が入りますね。それで無事に進めば、それから3カ月で本工の試験受けられるんです。その試験て言うのは、一般常識と面接。この面接が厳しいんですよ。それにその試験受ける時は、会社の人が近所に聞きに来るんですよ。鈴木さんてどういう人ですかー、なんてね。身上調査です。あとで近所の人がね、なんかコーチャンのこと聞きに来たよー、なんて言ったんでわかったんですけどね。コーチャン、まじめだったからねー、よく言っといたから、なんて。その頃はいろんな事件があったりしたから、政治思想とかを調べたんでしょうね。
それで本工になったのは、1962年の11月1日なんです。14カ月で本工になったんです。早い方なんですよ。入社してからちょうど2年の1963年8月に、長井さんが君はボディ屋さんにいたんだよね、っていうから、はい、いましたって。4年間、バスの屋根を作ったりしていましたって言うと、じゃあ君を推薦しておくからって。 川崎の設備課の中に試作っていうのがあるから、そっちに行ってみないかって。
僕自身の考えは、チャンスというのと、その裏側ですよね。今の職場では使えないから出されるんじゃないか、と思ったら、そちらには行けない。あるいはチャンスかもしれないし。決断するのは、勇気のいることでしたね。
<勇気を出して・・・試作の世界に>
移動したのは1963年の8月12日、ってことは、夏休み明けだったと思うんですよ。いつもの移動は1日とか、キリのいいと100トン・プレスが1台、それからベンダーって言う手で曲げる折り曲げ機と3本ローラーのがあって、ころがして曲げるローリング・ベンダー、それにアルゴン溶接機がありましたね。車種はベレットでしたから、その治具がふたつ。ボディサイドの治具とメーンボディの治具。その治具は吊り下げ式でね、上からおろしてバチャンと合わせて、一応水平を見て。
註:ベレットはその年の11月にはデビューしているから、この8月の移動から鈴木氏が関わったのは、最終の試作型であったと思われる。
でもこの工場は、試作としての形はできていたんですよ。板金の部署があって、その隣にブースを持った塗装部門、その先に組み立てと検査があって、そこにはピットが2本、作られてましたね。その試作部門の隣に木型があったんですよ。そこには木工機械が並んでね。その奥に原図室があった。原図っていってもわからないでしょうけど、その頃のほとんどの人は青図では小さくてわからないから、原寸の図面、原図で指示しないといけなかったんですね。そのために二人の人が原図を描いていました。後になって、僕らが青図でもできるようになったから、その部門はなくなりましたけどね。結構長くあったと思いますよ。(続く)